純白の欺瞞(前編)

 後編に無理矢理な性描写あり



 最初の日は、また会いたいと思った。2日目は、あっという間に過ぎゆく時間に驚いた。3日目は、離れたくないと感じている自分に気がついた。それから先、今日までずっと、俺の世界はアリスを中心に回っている。そしてきっと、明日からも永遠に。
 アリスに対して思うこと、感じること、思わず口からこぼれる一言、つい動いてしまう体、何もかもが初めてでひどく当惑した。が、アリスはあっけらかんとした笑顔と共に俺を懐に入れてしまった。相手が誰であってもこうなのかと心配になってさりげなく探ってみたら、「火村だから」と言われて危うく抱きしめそうになった。
 声が聞きたいと思って電話をすると、今度は顔が見たくなる。会ってしまえば別れたくなくなる。にもかかわらず、アリスに恋をしていると自覚するまでにはしばらく時間が必要だった。アリスが男だったからではない。自分が人を好きになれるなんて思っていなかったからだ。
 女は嫌いだ。というより、人間が好きじゃない。物心がついた頃から漠然とそんなことを考えながら生きてきたものだから、冷淡だの感情が欠落しているだの言われることには慣れている。そんな自分が他人を愛しいと思う日が来るとは、やはり世界は謎に満ちていると思う。

「怖い顔してなに考えてるんや」

 お前のことだ、とは言わない。――言えない。

「世界平和について」

 アリスは持ち上げたコーヒーカップが空っぽなことに気づくと、ひょいと手を伸ばして俺のをひとくち飲んだ。勝手に飲んでおいて「ぬるい」と文句を言う。

「君はほんまに嘘をつくのが下手やなあ。人の嘘は容赦なく見抜くくせに」
「そうかな」
「そうや。自覚ないんか」
「ないね」

 だって俺はもう何年も何年も、ただの親友のような顔をしてアリスの隣にいる。いちばん大切な人に最大の嘘をつきながら毎日をやり過ごしている。
 「おかわり」と言われる前に、俺はカップを持って立ち上がった。これ以上ひとの飲み物に口をつけられてはたまらない。理由が不快感ではないぶん、余計にたちが悪い。

「そうだ、火村ぁ、レンジの横に紙袋あらへんか?」
「なんだって?」
「レンジの横に、かみぶくろ」

 本当はちゃんと耳に届いていたが、かわいく間延びした声をもう一度聞きたくてわざととぼけてみせた。

「これか?」

 リビングに顔を出せば、これまた愛らしく両手を差し出して「それや」と言ってくれる。
 紙袋を渡してキッチンに引っ込み、コーヒーを用意してから再びリビングに戻ると、アリスは幸せそうに缶詰のクッキーを眺めていた。

「片桐さんの出張のお土産や。前に俺がうまいって言ったのを覚えてて、同じ物を買ってきてくれたんやで」

 もともとやる気などこれっぽっちもないが、今後どれだけ熱心に頼まれても珀友社に本なんか書いてやるものかと心に誓う。我ながらガキっぽい。

「君と一緒に食べようと思うてとっておいたのに、忘れてた。俺が先に選んでええか?」
「ああ。好きなだけ食えよ」

 頬杖をついてアリスを眺める。他の人間が用意したものを嬉しそうに食べる姿は見ていて気持ちのいいものではないが、相も変わらず愛しさはこみ上げる。
 俺の視線が物欲しそうに見えたのか、アリスは左手で適当なクッキーをつまんで「食うか?」と目顔で聞いてきた。その手首には、2ヶ月ほど前まで俺のものだった時計がはまっている。アリスの腕時計の電池が出がけに切れてしまったことがあり、俺のしていたものを貸したのだが、「具合がよかった」と褒められたのでそのままあげてしまったのだ。具合がよくて当然だ。持っている中で一番高かった。
 その時計をする時、アリスは俺よりもひとつ内側のベルト穴を使う。ひと回り細いのだ。身長は大差ないのに、アリスは昔から華奢だった。どこもかしこも硝子細工みたいに繊細で、守りたくなる。放っておけない。目が離せない。――なんて言えば、それは君のほうやと笑われるだろうか。華奢云々はともかく。

「火村?」

 いつまでたってもクッキーを受け取らない俺に、アリスは首を傾げた。柔らかい髪が揺れる。気が狂いそうなほど愛しい、と思った。

「いらんのか?」

 何も答えずに時計ごと手首を掴む。カーペットに座り込んでいたアリスを立たせ、問答無用に引き寄せた。その拍子にテーブルで向こうずねを強打したらしい。がつんという音と変な声が聞こえた。

「悪い」
「い、い、いきなり何やっ! これ絶対アザになるぞ!」
「アリス」
「お前、人の話聞いてんのか!」
「あまり聞いてない」
「アホ!」

 涙すら浮かべて痛がるアリスを見つめた。どさくさに紛れて白い頬に手のひらを滑らせると、長めの髪が指と甲をくすぐる。アリスが最後に髪を切ったのはいつだったか。少し記憶を辿れば思い出せてしまう自分に苦笑する。
 もうどんなに頑張っても、アリスを手放すことなんてできない。それなら風変わりな友人として傍にいればいい。犯罪現場を右往左往し、つまらなそうにキャメルを吹かす、アリスにとっての理想の火村英生であり続ければいい。これまでと同じ日々をなぞるだけだ。

「……火村?」

 物憂げな横顔に見とれても、頼りない体をこの胸にかき抱きたくなっても、何もかも押し殺して騙すのだ。
 自分とアリスを。

「――できっこねえよ」
「え?」
「アリス」
「何や、さっきから変やぞ」
「すまない、アリス」

 何がと問い返される前に、足を払ってアリスを床に転がした。今度こそ盛大に喚き出したが、かわいい口から吐き出される暴言は幼稚園児レベルのもので、本格的に恐怖や不安を感じている様子はなかった。プロレスごっこか何かと勘違いしているのだろう。アリスが人よりおめでたいのか、それとも俺が相当信用されているのか、真偽の程は判らない。だが、これから俺のしようとしていることが、優しいアリスをずたずたに傷つけるだろう、ということだけははっきりしていた。
 じたばたと暴れるので、自分の首にぶら下がっていたネクタイでひとまず手首をひとまとめにする。テーブルの脚に固定まですると、さすがのアリスも怪訝そうな表情を見せた。

「お前、何して……」
「知ってるか、アリス」
「何を?」
「俺がいつも、どんな目でお前を見ているか」

 聞いたくせに答えを聞くのが怖くなり、小さな唇が何ごとかを発する前にハンカチをつっこんだ。


continued. (2009/10/5)
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