口実


「あ」

 相変わらず腰にクる声だ、と思う。

「ん……たむら、あっ、そこ」
「ここ?」
「もっと……ん、気持ちいい」

 そこ、と言われた場所をもう一度こすると、練は細く息を吐いた。安息の溜息だ。練の頭は田村の手の中にあり、柔らかい髪の毛は泡にまみれている。

「おまえさ、あんまりやらしい声出すんじゃねえよ」
「なに、田村、俺の声聞いて元気になっちゃった?」

 練はバスタブの淵にもたせかけていた頭を起こし、流し場の腰かけに座っている田村の下半身を覗き込んだ。

「バカ、見んな」
「お、勃ってんじゃん」
「おまえがアンアン言うからだろ」
「田村にシャンプーしてもらうの気持ちいいんだもん」
「頭まで性感帯かよ」

 一般家庭のリビングほどもありそうな浴室に、練の笑い声が反響した。今夜はシノギの最中に呼び出されて、ヤって、酒を飲んでまたヤって、風呂に入っている。
 シャワーを手にすると練は素直に下を向いた。お湯が熱すぎないのを確認してから、小ぶりな頭を洗い流していく。細くて柔らかい練の髪が指の隙間を滑り落ちていくこの感触が、田村はとても好きだ。週に2回美容院でケアしてもらってるの、と自慢する女の髪より綺麗でなめらかだと思う。世の中には増毛だ育毛だと躍起になっている輩も山ほどいるのに、神様は本当に不公平だ。

「まだ?」
「まだだよ。動くな。泡が湯船んなか入っちまう」
「首が疲れた」

 文句を無視して洗い流し、きっちりトリートメントまでしてから、田村もバスタブに入った。ずっと浸かりっぱなしの練の頬は薄紅色に上気している。

「もう出るか?」
「あとちょっと」
「のぼせてぶっ倒れんなよ」

 練はくすくす笑いながら、田村の胸に頬を押し当てた。

「こうやって風呂入るの久しぶりだな」
「そうか?」
「そうだよ。俺のことほったらかしてパクられてんじゃねえよ」

 尖らせた小さな唇が愛らしい。田村は練の顎に手をかけて、顔を上げさせた。濡れてくっついている前髪をどかして額にキスをする。瞼と頬と、鼻の頭にも。本気にならないように唇は避けていたのに、練は納得してくれなかった。熱くて湿った舌があっという間に入り込んできて、田村の口腔で暴れ回る。

「練」
「うん?」

 唇をつけたまま喋ると、くすぐったい。

「そろそろ出ないとのぼせるぜ、まじで」
「うん」

 もうしばらく舌を絡め合ってから、練は田村の首筋に吸いついた。思わず「いてえ」と声が漏れるほど、強烈に。自分では見えないが、さぞかし立派なキスマーク、というよりむしろ歯型と言っていいほどの痕が浮き上がっているだろう。
 ようやく満足したのか、にっこり笑った練はさっさと湯船から出てしまった。田村は慌てて後を追いかけ、恐ろしく高価な絨毯をびしょびしょにされる前に、大きなバスタオルで練を捕まえた。これから服を着せてドライヤーで髪を乾かして、それが終わったらどうしよう。田村には、練の自宅に留まる理由がない。

「田村」

 おとなしく頭を拭かれていた練が、そっぽを向いて言った。

「寝酒に付き合え」

 田村は笑って頷いた。
 東の空は、すでに明るくなり始めている。

 end. (2008/8/24)

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