帰路

 兵助くんの卒業まで、あと、ひとつき。
 土井先生のお使いで街に出た帰り、兵助くんは遠回りしようとする僕を止めなかった。夕陽に背を向け、言葉少なに歩く。このまま二人で逃げたらどうなるだろう、なんて馬鹿げたことは考えない。だってもう、呆れるくらい想像し尽してあったから。実行する気はこれっぽっちもないけれど。

「まだ冷えるな」
「そうだねえ。寒い?」
「平気」

 そう答えながらも、兵助くんの耳は木枯らしに吹かれて赤くなっている。ひとことめに本音を言わない口をもどかしく思う時期もあった。でも今は、強がりも憎まれ口も愛しくて仕方がない。彼のプライドだとか、わけのわからない意地だとか、そんなものに愛を蹴散らかされた日々が懐かしく思い出される。僕はそのつど、ちりぢりになった恋心を拾い集めて、倍の大きさにして兵助くんに差し出した。
 出会ってから一年と半年ちょっと。結局、身長差は最後まで縮まらなかった。いつものように半歩先をゆく兵助くんの頭は、初めて会った日と変わらない位置にある。ちょうど同じだけ背が伸びたんだと思うと嬉しくなった。ただし、見ている世界が少し違うというのは悔しい。兵助くんの目に映るものは僕もぜんぶ憶えておきたいから。

「斉藤」
「あ、なにそれ、みんなといるときの呼び方じゃん」
「タカ丸」
「わっ、どうしたの」
「タカ丸さん」
「うん、それが一番しっくりくるね」

 兵助くんは声を出して笑った。

「なに言おうとしたか忘れた」
「ええ、気になる」
「思い出したら言うよ」

 夕陽が山の端に落ちる。闇に塗りつぶされる前に帰らなければと思うのに、足取りが重い。愛しさ、切なさ、寂しさ、悲しさ、どれかひとつでも置いていくことができたなら、少しは楽になるだろうか。いくつもの感情が入り乱れて、心は嵐の夜みたいだ。狂おしさの波が今この瞬間も押し寄せる。
 あ、と言って兵助くんが僕を見上げた。

「思い出した?」
「うん」
「なになに?」
「やっぱり、さむい」

 珍しく、ほんとうに珍しく、兵助くんのほうから僕の手を握る。兵助くんの骨ばった手は僕よりもだいぶ冷たくて、慌ててぎゅっと握り返した。
 ふたりの体温の差に焦れたこともある。僕たちがひとりの人間なら、すれ違うことも傷つけ合うこともない。けれど久々知兵助と斉藤タカ丸は別の生き物であって、溶けてひとつになってしまえばいいのにといくら願っても、それは無理な話だ。もしも神様が間違って叶えてしまったとしたら、勝手ながら僕は元に戻してくださいと懇願するだろう。だってひとりの人間になったら、会話することも抱きしめ合うこともできない。冷え切った手を温めてあげることも、できない。

「うわあ、いま兵助くんのことぎゅーってしたい、すごく」
「バカ。調子に乗るな」

 軽口を叩いてみせたけれど、声が震えてしまった。たぶん兵助くんはそれに気づかないふりをして、僕の手を引っぱるようにすたすたと歩いた。もう背後まで夜が迫っている。
 どうしてこんなにも好きになってしまったんだろう。なぜこれほど惹かれ合ってしまったんだろう。ごく近い未来に抗えない別離が待っているのに、想いは限界を知らずに募り続けている。頭のてっぺんから几帳面にまあるく整えられた爪の先まで愛しくて、愛しすぎて、呼吸の仕方すらわからなくなってしまう。息が苦しい。

「……ねえ、大好きだよ」

 兵助くんは僕のいちばん好きな笑顔を浮かべて振り返り、「知ってる」と言った。
 ずっと君だけを愛してるとか、僕のこと忘れないでとか、そういう言葉はいらない。やさしい彼の足枷になりたくはないから、わがままな台詞はぜんぶ飲みこんだ。
 風になびいた兵助くんの髪が、僕の頬を撫でて涙をさらっていく。別れる悲しみより出会えた喜びのほうが確かに大きいのに、眼前に迫った恋の終焉が心臓を締め上げる。唇をきつく噛みしめていても嗚咽が漏れて、それと同時に兵助くんの細い肩が小さく震えた。

(ああ、おねがい、君は笑って)

 一生ぶんの幸せをくれた彼に、どうか少しでも平穏な日々を。
 ひとりでは叶えられない夢を諦め、代わりに兵助くんの未来を想った。孤独に押し潰される夜など、決して訪れませんように。涙の数より笑顔のほうが多くありますように。
 東の空には一番星が浮かんでいる。滲んだ視界できらきらと輝くそれは、今まで見たどんな星よりも綺麗だった。


了 (2009/4/30)
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