夢の途中


 壮絶な色気と共に要求されて挫けそうになったが、斎藤はどうにか「だめです」と言った。これ以上飲んだら明日の仕事に差し障るから、いけません。

「けち」
「若、飲みすぎですよ」

 練は返事をせずに、グラスに残った僅かばかりのバーボンを名残惜しそうに舐めている。すっかり飲んでしまうと、次は氷を口に含んでガリガリやる。自分の肩に寄りかかって氷を頬張るこの男が新宿一、いや東京一恐れられているということが信じがたくなり、斎藤は少しうろたえた。
 近頃の練は、傍目から見ても纏う空気が柔らかくなった、ように感じる。花咲とかいうおもちゃを手に入れたおかげで、ご機嫌なのだ。

「斎藤、知ってるか」

 練は唐突に言った。

「何を?」
「俺がムショ出て、初めてウリやった相手の名前も斎藤なんだ」

 やはり最後のボトルは開けるべきじゃなかった。斎藤は後悔した。滅多に昔のことを話そうとしない練が自ら暴露し始めるなんて、かなり酔っているに違いない。

「それは……そうですか」
「おまえ、もうちっとマシなこと言えないの?」
「すみません」

 本気で謝ったのに練は笑い出した。酔った練は、よく笑う。素面でも笑うが、もっと笑うようになる。しかし心からの笑顔はほとんど見たことがない。その表情を引き出せるのは世界中探してもたった一人しかいなくて、もちろん自分じゃないと痛いくらいにわかっている。
 だが、右肩にかかる慣れた重みがどうしようもなく愛おしい。抱き寄せようと無意識に手を伸ばし、我に返って慌てて引っ込めると、練はもう一度笑った。

「甲斐性なし」
「はい」
「据え膳食わぬは男の恥」
「すみません」
「インポ野郎」
「……では、ないです」

 今度は腹を抱えて笑い始めた練を、斎藤は思い切り抱きしめた。その小さな口から可愛くない言葉が飛び出してくる前に、さっさと塞いでしまう。舌が触れ合うと練はおとなしくなり、自分から斎藤の膝に跨った。練に舌を吸われ、唇をねぶられている間に、必死で考えてみる。

 俺じゃだめか? 俺には若を救えないのか? 何が足りないんだ?

 いいとか悪いとか、足りるとか足りないとか、そういう問題ではない。そんなの問題にもならないのだ。練は善悪や愛憎を超越した心で、韮崎誠一の夢を引き継ぎながら、麻生龍太郎を愛している。こんなに傍にいるのに、とてつもなく遠い。

「若」

 細い腰を抱え直し、蝶の刺青に舌を這わせた。シャワーも浴びていないから、汗の味がする。

「好きです」
「知ってるよ」
「知らない……若は全然、知らない」
「へえ」

 練は面白そうに片眉を持ち上げた。長い睫毛に縁取られた切れ長の目の奥に、ちらちらと好奇心が見え隠れしている。その目に自分をだけを映してほしい、だがそんなことは口が裂けても言えやしない。

「じゃあ教えてくれよ」
「……はい」

 どんな形でもいい、傍にいられるだけで幸せだ。何万回目かの自己暗示をかけてみたが、もう効果はなさそうだった。
 自分を騙すのをやめたら、二人の関係はどう変わるのだろう。後退するのか、立ち止まるのか、それとも過ぎ去るのか。想像したくなくて、斎藤は自分より小さなからだに縋りついた。溢れた涙は蝶の羽に乗って、それから練の腋の下に流れ落ちていった。

 end. (2008/8/19)

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