ピロートーク


「おかえり」

 満面の笑みで麻生を出迎えた練の手には、何の変哲もない耳かきが握られていた。てっぺんには白いふわふわがついている。

「ただいま。どうした、そんなもん持って」
「耳掃除、やんない?」

 もう一度にっと笑い、練は顔の横に耳かきを掲げてみせた。
 この男の気まぐれと思いつきには慣れている。重要なのは、突拍子もない言動の裏に隠されている根拠を探り出すことだ。どんなに訳のわからない主張だったとしても、そこには必ず練なりの理由が存在する。
 人の感情に鈍感な麻生としては、最初から素直にものを言ってもらった方がありがたいのだが、最近は謎かけのような練の言葉も楽しむようになっていた。わがままの根拠はいつだって、眩暈がするほど可愛いからだ。

「やんないって、俺がおまえの耳を掃除するのか」
「どっちでもいいよ。やりたい? やられたい?」
「誤解を招くような発言は謹んでくれ」
「誤解じゃないもん。俺はやられたい」
「何をだ」
「とりあえず、耳掃除」

 練はけらけらと笑いながら、麻生をベッドに座らせた。しかも正座をしろと言う。そこまでくると、さすがの麻生にもわかった。膝枕がしたいのだ、こいつは。

「練、おまえな、もう少し素直にお願いしたらどうだ」

 返事の代わりに、小さな頭がころんと膝の上に乗ってきた。耳に赤みが差している。唐突に愛しさがこみ上げてきて、麻生は形ばかり手にした耳かきを握りしめた。柔らかい髪も、貝殻のような耳も、頬に影を落とす長いまつ毛も、信じられないくらいに愛おしい。
 穴の開いていない方の耳たぶに触れ、そのまま小指を差し入れて中をこすると、か細い声が上がった。麻生はたまらない気持ちになって、耳かきを放り出した。こんなものを突っ込んだら、きっと傷つけてしまう。

「なんだよ。やってくんないの」

 体を捩じらせて仰向けになり、練は麻生を見上げた。

「よく考えてみたら人の耳掃除なんてやったことなかったんだ。勝手も何もわからん。鼓膜でも破ったら大変だろう」
「してもらったことはあるの?」

 途端に、ふたりの女の顔が脳裏を過ぎった。条件反射のようにちくりと痛む胸に情けなくなる。だが想い出の中だけに住む女たちは、年を追うごとに確実に色褪せていった。あれだけ強烈な一目惚れをした元妻の顔でさえ、靄がかかったようにはっきりとしない。獄中で天に召された、着物の似合うあの女性も、曇りガラスの向こうにいるみたいに薄ぼんやりしている。
 目を閉じていちばん最初に思い出すのは、膝の上で子どものように甘えてくるこの男だ。先のことはわからない。できない約束はもうしない。だが俺は今、世界でいちばん練を愛していると、練を最も愛しているのはこの俺だと、麻生は思った。

「……女房のこと思い出してんのかよ」
「いや。おまえのことを考えてた」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」

 練は、あっという間に機嫌を損ねてふてくされてしまった。体を転がして、もう一度横を向いてしまう。泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり、本当に忙しいやつだ。麻生は声に出さず笑い、練の耳元に唇を寄せた。

「俺の耳掃除、やってくれないか」

 顔の位置はそのままに、練は視線だけ麻生に向けた。

「そのへんの安い女買ってやらせればいいだろ」
「おまえにやってほしい。おまえじゃなきゃ意味がないんだよ」
「なんだよ、それ」
「言わせるつもりか? なあ、練」

 宝箱を開ける時みたいに、いや、それよりもっと大切に名前を呼んだ。麻生にとって、「れん」という言葉は魔法の呪文だった。声に出せば出すほど、胸が愛しさで満たされる。
 ようやく起き上がった練は、耳かきなど目もくれず麻生の首根っこにしがみついてきた。咬みつくような勢いで耳を愛撫される。細く尖らせた舌が、入り口を出たり入ったりする。

「おい、ちょっと待て、練」
「やってあげてるんじゃん、耳掃除」
「それじゃ違う方をやりたくなっちまう」
「変態」
「どっちが」

 もつれ合いながら汗臭いシーツに転がる。
 はみ出た足がベッドのパイプにぶつかったが、甘く痺れたようにしか感じなかった。

 end. (2008/7/17)

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