紫陽花


「何だこれは」

 机の真ん中にどんと生けられた花に目を止めて、麻生は呆れた声を上げた。

「アジサイだよ。見てわかんない?」

 安物の客用ソファに寝そべった練の声が聞こえてきた。はみ出した長い足をぶらぶらさせている。今日は上等そうな革靴だ。

「いくら俺でもわかるさ。どうしたんだよ、これ」
「もらったんだ」
「もらった?」
「うん」

 練は上半身を起こして得意気な顔をしてみせた。空いたスペースに腰を下ろすと、クッションか何かと勘違いして寄りかかってくる。
 ジメジメした屋外を一日中歩き回った体に高そうな服がくっついてるのは落ち着かなかったが、心地よい体温と吸い付くような肌に触れてしまった今、立ち上がるには勇気が必要だった。諦めて腕を回し、後ろから練を抱き寄せる。

「そこの裏の家、30メートルくらい行ったとこなんだけど、アジサイがいっぱい咲いてんの知ってる? 知らないよな。あんた、花とか興味なさそうだもんな。で、これが台風一過の空みたいな色ですげえ綺麗だったから、見せてやろうと思ってさ」
「おまえまさか、人様の庭に咲いてる花を盗ったのか」

 無意識のうちにまさぐっていた、絹のように柔らかい髪を摘んで咎める。

「違うよ。最初は引っこ抜くっていうか、折るつもりだったんだけど」
「ほらみろ」
「なかなかできなくて困ってたらその家のばあさんが出てきて、欲しいならおすそ分けしますよって切ってくれたんだ。泥棒じゃないでしょ」
「……限りなく窃盗だ、馬鹿者」

 庭先に不審者がいると通報されていたらどうするつもりだったのか。おまえにヤクザの若頭だという自覚はないのか。
 言葉にせずとも、深い溜息だけで伝わったらしい。練は「だって」と勝手に言い訳を始めた。

「これ、どうしてもあんたに見せたかったんだもん」
「引っこ抜こうとしなくても、そのうち散歩がてら覗きに行けばいいだろう」
「この色が見せたかったんだ。アジサイってだんだん色が変わるから」

 腕の中でそっぽを向く練を、もう一度抱きしめた。白いうなじに唇を当ててみる。肩が揺れただけで、まだ振り向かない。

「綺麗な色だな。台風一過の空、か。これが何色になるんだ? 紫かな」
「……移り気」
「ん?」
「アジサイの花言葉。土壌のpHとか花の持ってる色素によって色が変化するから、だから移り気」
「そうか……」
「誕生石とか花言葉とか、知らないとモテないよ」
「いいんだ。必要ない」

 うなじを吸って赤い痕をつけ、音を立てて唇を離すと、練はとうとう顔を見せた。相変わらずおどおどとした目も、への字に曲がった口も、可愛くてたまらない。いい年した男に庇護欲を抱くなんておかしいのかもしれないけれど、この気持ちを抑えるのは息をしないで生きることと同じくらい難しい、と麻生は思う。
 自分にこれほど純粋な感情が残っていたのかと困惑してしまうほど、ただ練が愛しかった。足を洗わせて、合法すれすれの危険な仕事から手を引かせて、この事務所に閉じ込めておけたらどんなにいいだろう。きっと互いの寿命が延びるに違いない。
 軋む心をなだめようと歯を食いしばっていたのに、練は何も知らないふりをして唇に咬みついてきた。

「ん……龍、やりたい」
「駄目だ。今夜は仕上げなきゃならん報告書が」
「やだ、やりたい。今したい。どうしても、したい」

 麻生の「駄目だ」よりも練の「やりたい」の方が、圧倒的に説得力がある。そのことを喉の奥で笑うと、練は不機嫌そうに首をかしげた。数瞬後にはもつれ合いながらソファに沈んでいった。
 痴話喧嘩のあとの、仲直りのセックス。ひどく歪な関係の自分たちが、手垢にまみれたステップを踏んでいることがやけにおかしい。だが、どんなに歪んでいても、理解できないと罵られても、麻生と練が恋をしているという事実は誰にも曲げることのできない真実だった。
 離れていれば会いたいと思う。顔を見れば触れたくなる。キスして抱きしめてセックスして、それでも足りないと心が悲鳴を上げる。相手のすべてが欲しくなる。自分のすべてを捧げたくなる。積み重ねてきた日々を捨てることなどできないと知りながら、愚かに夢を見続ける。これが恋じゃなかったら何なんだ?

「あ、あ、あっ、そこ……気持ちいい」
「ここか」
「ん、いい……っ、でっかくなったの、あたってる」
「おい、そんなに締めるな、出ちまうだろう」
「や、だって……んあっ、あ、ああっ」

 恐らく麻生の目玉が飛び出すような値段のシャツやパンツが、二人分の精液で汚れている。最初に脱がそうとしたものの、「いいから早く」と急かされて着たまま繋がる羽目になってしまったのだ。結局気を遣っていたのは初めのうちだけで、二度目以降は歯止めがきかなかった。
 仕事の予定も大人の余裕も放り出して、飽きるまで快感を貪り合うのが正しいのか間違っているのか、麻生にはわからない。わかってしまったら、この関係に区切りをつけなければならない、ということには気づいている。

「あ……龍、龍、出して、中に出して」
「でもおまえ……これ以上は辛いんじゃ」
「平気、つらい方がいいから、おねがい、ねえ、あっ」

 コンドームをつける余裕はもちろん、冷静な判断力も遠く彼方に消し飛んでいた。しなやかな足を腰に絡みつけられ、麻生は幾度目かの絶頂を練の中で迎えた。
 練もまた、恍惚の表情で体を震わせる。吐き出された精液が蝶の刺青まで飛んでいるのを見つけると、麻生は舐め取らずにはいられなかった。



「俺、ほんとはアジサイって嫌いなんだよね」

 ベッドに移動して二人で一本の煙草を共有している時、練がぽつりと言った。

「なんで嫌いな花をわざわざ持ってきたんだ」
「なんでだろ……ただ龍に見せたかっただけで、それ以上の意味はない」
「じゃあどうしてアジサイが嫌いなんだ?」
「……誠一に」

 その名前にほんの少し動揺したが、麻生は黙ったまま練の指からメンソールを奪った。吸っている間は何も言わなくていい。練がもう一度口を開くまで、麻生は煙草を独り占めしようと決めた。

「誠一に、アジサイの鉢植えで殴られたことがある。頭から血を流す俺を見て、おまえには似合いの花だって笑ってた。そん時はショックっていうより、誠一が花言葉とか知ってるってことに驚いたんだけどね。そういう点では、あんたより誠一の方が繊細だったかもしれない」
「……悪かったな」
「別に怒ってないよ。あんたの野暮には慣れてる」
「そうじゃなくて。アジサイのこと聞いて……韮崎のこと思い出させて悪かった」

 次にかけてやるべき言葉が何なのか、見当もつかない。途方に暮れた麻生は、とりあえず煙草をもみ消して練の唇を塞いだ。
 柔らかな髪に指を差し入れて、交ぜるようにしながら頭皮を撫でる。空いた腕は背中に回してきつく抱きしめた。

「俺が勝手に持ってきて感傷に浸ってるんじゃん。どうしてあんたが謝るの」
「わからん。難しいことを聞くな」

 練はけらけらと笑って、麻生の顎に頬を押し付けた。

「タイミングよく謝ってキスしてくるから、たまには気の利いたことができるんだって感心してたけど、やっぱりあんたはあんただね。鈍感オヤジ」
「うるさい」

 今度から、アジサイを見たら俺のことを思い出せ。
 そう伝えるつもりで開いた口には悪戯な舌が滑り込んできて、最後まで言えなかった。

 end. (2008/6/12)

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