サイレントブルー

 閉じたまぶたに微かな光を感じる。もう朝かと思ったが、それにしてはほとんど眠った気がしなかった。抗いがたい睡魔に身を委ねてから、まだいくらも経っていないように感じる。もしかしたら、この光は朝日ではなく――
 うっすら目を開けると、忙しなく動き回る長い指が見えた。意識が覚醒するにつれて、カタカタとキーを叩く音も聞こえてくる。やはり光の正体は朝日ではなく、モバイルパソコンのディスプレイの照明だった。

「……さえき」

 名前を呼ぶ声が思ってもみないほど掠れて情欲が滲んでしまったことに、御堂は少しだけうろたえた。咳払いをしてごまかす。が、克哉にはこんな小さな動揺ですら隠せないらしい。声に出さずに笑った気配がした。

「すみません。起こしちゃいましたか」

 シャワーを浴びてからベッドにもぐり込み、パソコンを立ち上げたのだろう。克哉の髪はしっとりと湿っていた。

「どうした。そんなに急ぎの仕事が残っていたのか?」
「いえ、ちょっと気になることがあったから確かめていただけです。もう終わりにしますよ」

 そう言いながらも、克哉は手を止めようとしない。目もディスプレイに固定されたままだ。
 髪から水滴が滴り落ちる様子を見かね、御堂は掛け布団から這い出た。傍らのタオルで克哉の頭をごしごしと拭く。部屋の空気は、ふたりぶんの体温でぬくもっていたベッドが恋しくなる程度にはひんやりしていて、御堂の肌を粟立たせた。続いてくしゃみもひとつ、ふたつ。

「ああもう、何やってるんですか。そんな格好でいたら風邪ひきますよ。俺なんかのことはいいから、早く布団に入ってください」
「君が髪を濡らしたままでいるのが悪いんだろう。それに私は自分から脱いだわけじゃない」
「はいはい」
「なんだその返事は。俺なんかという言葉も聞き捨てならないな。いま君に倒れられたら困る。私や藤田だけではなく、社員全員の生活が君にかかっているんだぞ。わかってるのか?」

 まだまだ小さな会社だ。社員一人ひとりの意見が直接トップに届く。死に物狂いで働く克哉を気遣う声も、もちろん上がっている。しかしこの男は、御堂がブレーキをかけてやらない限り二晩でも三晩でも徹夜してしまうのだ。自分もワーカホリック気味だと思っていたが、克哉の比ではない。
 今度は気の抜けた返事のかわりに手が伸びてきて、布団に引きずり込まれた。さっきよりも克哉に近い。

「なんだ。御堂さんは俺の体より会社のほうが心配なのか?」

 ようやくパソコンの電源を落とした克哉は、それを脇へ押しやって御堂に向き直った。もぞもぞと動いた拍子に布団の中で足と足がぶつかる。引っこめようとしたが、器用に絡め取られてしまった。いつの間にか腰にも腕が回っている。

「そうは言ってない。私はただ、君に無理をしてほしくないだけだ」
「無理、ね。しますよ。せざるを得ない」
「確かに今回のプロジェクトは大きなものだが――」
「今だけの話じゃないんです」

 ぐい、と引き寄せられる。首筋に冷たい眼鏡のフレームが当たって、思わず肩をすくめた。

「仕事で結果を出すしかないんだ」
「……どういう意味だ?」
「俺たちは結婚できない。世間に俺たちを認めさせるには、会社っていう窓口を通すしかないんですよ」

 顔が見たくて克哉の肩を押しやろうとしたが、より強く抱きしめられてしまって叶わなかった。仕方なく、まだ乾ききらない髪に指を差し込む。自分と同じシャンプーの香りがした。

「どんなに成功したって、社会的な保証なんて手に入らないとわかってる。でも俺は認めさせたいんです。佐伯と御堂じゃなかったら駄目だったと言わせたい」

 驚いた。克哉がそこまで考えていたことではなく、それを話してくれたことに。

「……ガキみたいですよね。すみません、忘れてください」
「どうして? 私だって同じことを思ってる。だが、体を壊してしまったら元も子もないだろう。君にもしものことがあったら、私はどうすればいいんだ。取ってもらうべき責任はまだ残っているんだからな」

 目に見えない何かから守るように、克哉の頭を両腕で抱きかかえた。憎くて憎くて、一時は殺したいとまで思った男の頭。それが自分の腕の中にあることに、今は泣き出したいくらいの安心感を覚える。
 ふたりの関係を説明するのは難しい。恋という一言で片付けるにはためらいがある。しかし執着と呼ぶには愛しさが混ざりすぎている。克哉に対して抱く感情に、御堂は愛以外の名前を付けられなかった。自分でも戸惑うほど、克哉を愛していた。

「佐伯、もう私をひとりにするな。どこにも行かないでくれ」

 陳腐な台詞は、それでも克哉の心を揺さぶったらしい。噛みつくようなキスで唇を塞がれて、御堂は瞠目した。強引に入り込んできた舌が無遠慮に動き回り、乾いていたはずの咥内に唾液が満ちる。

「んっ、待……っ、私は大事な話を……」
「それ以上言うと、キスだけじゃすまなくなりますよ」
「こ……こら、茶化すな。約束しろ。一生、私のそばにいると誓え」

 レンズの向こうの瞳が意外そうに瞬きを繰り返し、やがてぬくもりにあふれた視線に変わる。克哉がこんな目をするようになったのは、一体いつからだろうか。

「俺は毎日態度で示しているつもりなんですけどね。あなたも心配性だ」
「うるさい。約束できないのか」
「できますよ。命だって懸けられる。頼まれたって離さない」

 ほとんど触れ合わせたままだった唇が、改めて御堂のそれに押し当てられた。頬にも、耳にも、まぶたにも。

「やめろ。くすぐったい」

 笑いながら克哉の懐にもぐり込めば、驚くほど優しく抱きしめてくれた。言葉にしがたい思いがこみ上げてきて何も言えないでいると、「寒いか?」と問われる。

「いや」
「でも肩、冷たくなってる。暖房つけましょうか?」
「大丈夫だ。……もう少しこのままでいてくれ」

 忘れかけていた眠気が近づいてくるのを感じて、御堂は目を閉じた。子供を寝かしつける時の仕草で背中をぽんぽん叩かれたが、嫌な気分にはならなかった。激しく求め合うのと同じくらい、こういうのも悪くない。そう思えた。
 枕元にあると邪魔だったのか、克哉はパソコンをベッドサイドのテーブルに移動させる。持ち上がった布団の隙間から滑り込む空気は、やはり冷たい。否応なしに冬の訪れを感じさせる。
 克哉と別れた日も再会した日も、よく冷えていた。ちらつく雪の匂いまで覚えている。やっと冷静に思い起こせるようになったものの、過去のことだと笑い飛ばすにはもう少し時間が必要だった。御堂にも、そして克哉にも、傷痕は残っている。

「……冬が来るな」

 同じような考えを巡らせていたのだろうか。独白じみた調子で克哉が呟いた。

「ねえ、御堂さん。今年の冬は旅行に行きましょうか」
「そんな暇ないだろう」
「大きな仕事も年末には区切りがつく。事業をさらに拡大させる前の小休止ですよ」
「それなら社員旅行にすればいいじゃないか。みんな頑張ってくれているんだし」
「俺は御堂さんとふたりで行きたいんです」
「何人だって同じだろうが。子供じゃないんだから」
「いえ、ふたりで行きます」

 はは、と声に出して笑うと、耳に噛みつかれた。

「まったく仕方がないな、君は。スケジュールを調整してみよう」
「忘れないでくださいね」
「君のほうこそ。私との誓約を破るなよ」
「もちろん」

 どちらからともなくもう一度キスをして、今度こそ目を閉じた。
 どうやら新年は旅先で迎えることになりそうだ。今から調整しておけば、都合などいくらでもつけられる。それに大晦日は克哉の誕生日だ。案外、これでプレゼントをねだっているつもりなのかもしれない。御堂も人のことを言えた義理ではないが、克哉は変なところで不器用な男だ。だから、愛おしい。
 もう間もなく、朝日が昇る。街は海の底に沈んだかのように、夜明け前の青に包まれているだろう。慌しい一日のうちの、一瞬の静謐。それを満たすのが克哉の体温と心音だけであることに無上の幸せを感じながら、御堂は眠りの淵に落ちていった。


end. (2009/10/29)
(サイレントブルーとは、夜明け前の空の色のこと)
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