ignorance is bliss

 玉村は、馬鹿みたいに大きいベッドの真ん中に寝かされていた。見上げれば高い天井。鼻を掠めるのはシーツに染みついた煙草の臭い。ああ、やっちまったと思いながら起き上がると、頭がガンガン痛んだ。

「起きたか、タマ。あれしきの酒で潰れるなんてだらしないぞ」
「申し訳ないです。あの、他のみんなは?」
「三次会に繰り出したよ。俺はひとりで飲み直したかったし、タマもベロベロだったから、抜け出してタクシー拾った」
「すみませんでした。帰ります」
「何時だと思ってるんだ」

 加納の背後の壁掛け時計が、午前4時半を指していた。

「もう少し待てば始発ですね」
「明日は非番だ。ゆっくり泊まっていけばいいだろう」
「でも」
「タマ、おまえ」

 ぎしり、と音を立てて加納がベッドに腰を下ろす。逃げ場はない。玉村は観念して、あちこちにさ迷わせていた視線を加納の目に合わせた。彼の目は綺麗でまっすぐで、どんな宝石よりも価値があると玉村は思う。

「取って喰われやしないかって心配してるのか?」
「いえ、そんな……」
「酔っていたほうが都合がいいと思うがな。あとで言い訳がきく」

 こんな時どんな顔をするべきか、玉村は知らない。

「下心ゼロって言ったら嘘だけど、そういうつもりで連れてきたんじゃないから安心しろ」

 ほんのわずかだが自分が失望していることに気づいた玉村は、慌てて感情を立て直した。
 玉村だって加納が好きだし心から尊敬している。しかしその「好き」に特別な意味はない。あってはならない。自分には愛する妻と娘がいるのだから。
 それに恋愛とは穏やかで温かく、内側から満たされるものであるべきはずだ。妻との恋はそうだった。もしもこれが恋愛ならば、こんなふうに苦しくて身動きが取れなくなるのはおかしい。そうだろう? 玉村誠。自問自答してみるが、どうにも頼りない。

「俺はタマを困らせているみたいだな」
「そんなこと、ないです。ただ」
「ただ?」

  あとが続かなかった。自分でも把握できずに持て余すこの感情の正体を、別の生き物である加納に伝えるなんて無理に決まっている。

「自分でもよくわからないんです。あなたの傍にいると苦しくて、でも離れるともっと苦しい。初めて会ったその日から、私は加納警視正でがんじがらめになった気分です」

 加納は眩しいものを見るように目を細め、うっすらと笑う。

「タマはそれをなんて呼ぶか知らないのか」
「え?」

 いきなり腕を掴まれて、広い胸にかき抱かれた。まともに加納の匂いを吸いこんでしまってくらくらする。

「待ってください、さっき下心ないって」
「ゼロじゃないと言ったんだ。30くらいはある」

 屁理屈だ。だが口で加納に勝てたことは一度もない。
 嫌味のひとつでも言ってやろうと開いた唇は、あっけないほど簡単に塞がれてしまった。加納の腕の中で顔を上げるとどうなるかよく知っているはずなのに、玉村は毎回同じ失敗を繰り返す。

「んっ、」

 引っこめてあった舌を強引に引き出され、加納のそれと絡ませ合う羽目になった。逃げようにも後頭部をしっかり支えられているため、抵抗すればするほどキスが深まる。嗅ぎ慣れた煙草の臭いが口いっぱいに広がり、苦味を伴って体内に侵入してくる。

「タマ」

 名前を呼ぶ時ですら、唇を離してくれない。

「苦しくてがんじがらめっていうあれ、なんて呼ぶか教えてやろうか」
「……もう少し自分で考えてみます」
「いい心がけだ。わかったらすぐに報告しろよ」

 玉村は曖昧に笑う。
 答えを知ってしまったら今度こそ逃げられなくなる、そんな気がした。



end. (2009/3/22)
(ignorance is bliss=知らぬが仏)
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