愚痴外来の災難

 加納は危うく、それを踏みつけるところだった。すんでのところで気が付いて、車の中に足を引っ込める。コンクリートの灰色と同化して見落としそうになってしまうが、小さくて丸い毛糸のかたまりが確かに転がっていた。まじまじと凝視すると、微かに震えているように見える。
 嫌な予感が加納の胸をよぎると同時に、汚れた毛糸玉がミャア、と鳴いた。

「あのう、加納さん、ここは動物病院じゃないんですが」
「だから言ったじゃないですか、警視正。今から動物病院に行きましょう。ね?」
「こんな夜中に開いてるわけないだろうが。田口先生も医者の端くれなんだから、猫の一匹や二匹どうにかしろ」

 深夜の不定愁訴外来、通称“愚痴”外来は、加納警視正と玉村警部補、プラス捨て猫の奇襲攻撃を受けて弱り切っていた。残業して雑務処理に精を出した日に限ってこうなってしまうのは何故だろう、と田口は思う。そして「医者」と十把ひとからげに考えるのはやめてほしい、と切実に願う。神経内科医に猫の治療を要求するな。

「まだ生きてるだろ? 助けてやってくれ」

 加納は田口の席を横取りし、玉村にコーヒーを淹れさせている。

「はあ……体力は落ちてるみたいですけど、温かくしてミルクを与えれば何とかなるんじゃないでしょうか」
「頼りないな」
「私は獣医じゃありませんからね。明日にでも動物病院に連れて行ってあげてください」
「だそうだ、タマ」
「ええっ、私ですか?」

 加納と玉村の押し問答を尻目に、田口は財布を持って院内売店に走った。赤ちゃん用の粉ミルクを買うためだ。本当は猫専用のものを飲ませてあげたいが、やむを得ない。哺乳瓶は明らかに大きすぎたので医療用のスポイトを代用することにした。領収書を切ろうかどうか迷っているうちに会計は終わってしまい、狭い売店から押し出される。仕方ない、貸しということにしておこう。
 不定愁訴外来に戻ると、玉村が濡らしたタオルで仔猫の体を拭いているところだった。それを見つめる加納の目が驚くほど穏やかで、田口は意味もなくどぎまぎする。

「タマのところで飼えないのか?」
「うーん、仔猫って大変そうだし、女房がなんて言うかなあ。警視正は無理ですよね」
「ああ。そもそもペット禁止のマンションだからな」
「困りましたね」

 玉村が振り返り、入り口で立ち尽くしていた田口の顔を見る。

「あ、お帰りなさい、田口先生」

 どっちが客だ。
 清潔になった仔猫はいくらか元気を取り戻し、スポイトから元気よくミルクを飲んだ。懸命に吸い付く姿はとてつもなく愛らしく、うっかり飼いたいと思ってしまうほどだ。田口の心を読んだかのように、加納は言う。

「田口先生、こいつ、ここで飼えないか?」

 半分予想していたから、田口はきっぱりと断る。

「無理です」

 ですよねえ、と玉村が苦笑しながら同意してくれる。ありがたい。しかし加納は食い下がり、飼い主が見つかるまででもいいから飼えと脅してくる。

「いくら加納さんのお願いでも、それは無理です、たぶん」
「たぶんってなんだ」
「いや、ここは設計ミスのおかげで隔離されたような場所だし、患者さんも完治している方ばかりだし、」
「じゃあどうにでもなるだろう」
「いやあ、でもやっぱり一応病院だし……あっ」

 先月から不定愁訴外来を訪れるようになった年配の女性が、飼い猫を亡くして寂しがっていたことを思い出したのだ。事情を話すと、加納は「決まりだ」と言った。

「でも、また飼いたいとまでは言ってませんでしたよ」
「そうですよ、警視正。田口先生にもご迷惑です」
「飼いたいかもしれないだろ。駄目だったらまた考える」
「はあ……」

 里親はその女性ということに決定され、加納と玉村は嵐のように去っていった。取り残された田口は、膝の上ですやすやと眠る仔猫を見下ろしながら溜め息をつく。結局、動物病院に連れて行くのも俺ってことか。
 後日来院した件の女性は、一も二もなく仔猫を引き取ってくれた。そして拾った二人に猫の名前を付けてほしいと言う。自分からコンタクトを取るのは少々億劫だが、里親に頼まれちゃ仕方ない。

「――というわけなんです。名前、どうしますか?」
『タマだ』
「はい?」
『だから、名前はタマだ』

 受話器の向こうでまたしても押し問答が始まり、田口は黙って電話を切った。


end. (2009/3/16)
ブラウザを閉じてお戻りください

inserted by FC2 system