cigarette

 「20本!」

 玉村は、ぽかんとする加納の口から火の点いていない煙草をつまみ上げた。ついでに箱とライターも回収し、運転席のドアポケットに隠す。

「なんだ、どうした? タマ」
「今日これで20本目ですよ、煙草。多すぎです」
「いつものことだろう」
「ここのところ量が増えてますよ。私の服にも臭いが染みつくくらいですから。喫煙所はどんどん減ってるし体にも良くないし、禁煙してみたらどうですか?」

 実を言うと自分自身はそこまで気にしておらず、妻と娘に「煙草臭い」と非難されたのがきっかけなのだが、馬鹿正直に白状すればろくなことにならないと経験上わかっている。それに加納の体を心配する気持ちは本物だ。
 百害あって一利なし。ネットで収集した受け売り文句と喫煙の恐ろしさを語ろうとしたところで、信号が青に変わった。ゆっくりとアクセルを踏み込む。

「ただでさえ肩身の狭い思いをしてるってのに、タマまで喫煙者を迫害するつもりか?」
「いつも堂々と吸ってるじゃないですか」
「病院では吸わなかったぞ」
「私が止めたからです」
「そうだったかな」

 加納は涼しい顔でポケットに手を入れ、真新しい煙草の箱を取り出した。

「いったい何箱常備してるんですか?」
「さあ」

 助手席のグローブボックスには運悪くマッチが入っていたようだ。シュッという音と共に、微かな硫黄の臭いが車内に充満する。見ていなくても、マッチを振って火を消すまでの流れるような動作が目に浮かんだ。
 肺ガンがどうの死亡率がどうのといった話を抜きにすれば、玉村は煙草を吸っている加納を眺めるのが好きだ。赤信号のたびに横顔を盗み見てしまう。

「とにかく」

 そんなささやかな楽しみが減るのは寂しいが、健康には代えられない。お互いに。

「禁煙しましょう。急には難しいみたいですから、ひとまず1日1箱にしてください。今日はもう終わり」
「無理だ」
「加納警視正に不可能はありませんよ」
「おだてても無理だ。タマ、おまえ、空気を吸わずに生きられるか?」
「禁煙して死んだ人間はいないから大丈夫です」

 激しく抵抗する加納をなだめながら、煙草がいかに有害なのかを説明する。譲歩し合い、やっとのことで「1日30本」に決まりかけたのに、玉村は最後の最後で口を滑らせた。
 「もう若くないんだから健康に気を付けないと」と言った瞬間、空気が凍りつく。思い切り地雷を踏んでしまったらしい。

「あの、警視正、別にそういう意味ではなくて」
「そういう意味ってどういう意味だ?」
「ええと……」

 必死で言い訳を考える。もうすぐ桜宮署に到着するというのに、このままだと車から降ろしてもらえない。
 数分前の自分を罵りつつ左折していると、助手席から加納の手が伸びてきた。

「わっ!」
「行き先変更だ」

 加納はステアリングを掴んで強引に右折させようとする。こっちは両手、向こうは片手なのになんて力だ。
 車は大きくよろめいて方向転換し、よたよたと右に曲がった。クラクションひとつ鳴らされなかったのは、たまたま交通量が少なかったのと、乗っていたのがパトカーだったからだろう。加納は手を挙げ、驚く対向車に挨拶している。

「あ……危ないですよ、警視正!」
「ちょっとな。タマ、今夜は外泊すると嫁さんに電話しろ」
「はっ?」
「俺のマンションに向かうぞ。本当にもう若くないかどうか、思い知らせてやる」

 口は災いのもと。
 次の赤信号で恐る恐る顔色を伺うと、頭を引き寄せられて煙草の煙ごとキスされた。


end. (2009/3/7)
ブラウザを閉じてお戻りください

inserted by FC2 system