このミス2008「東京都二十三区〜」読後の妄想


『お久しぶりです。ちょっと厄介に巻き込まれて神奈川県警灯籠署にいます。不躾なお願いなのですが、加納警視正の連絡先を教えて頂けないでしょうか?』

 昨晩、東城大学医学部付属病院不定愁訴外来、通称“愚痴”外来の担当医師、田口公平から送られてきたメールだ。一年前の事件で知り合った際に妙に気が合い、アドレスを交換していたのだ。だが連絡先を教え合ったもののそれっきりというパターンだったので、玉村は田口の顔を思い出すのに数秒かかってしまった。
 たぐち、たぐち、ああ、あのぼんやりした先生か……と思い至ると同時に、玉村は焦った。あの田口が加納警視正を呼びつけるなんて、よっぽど面倒なことになってるんじゃないか? もしかして重要参考人として任意同行、なんて事態になって途方に暮れてるとか。
 とてつもなく気になったけれど、自分まで灯籠署に行ってもどうしようもない。そう言い聞かせて玉村は布団にもぐり込んだ。結局深い眠りにはつけず、こうして朝から目をこする羽目になってしまったのだが。
 加納がいなくなってひと月、玉村は平穏な日々を取り戻しつつあった。足を使った捜査を馬鹿にされることも、現場をかき回してトンズラする加納の代わりに怒られることもなくなった。そこそこ忙しくも単調な毎日。望んでいたはずの元の生活は、しかし意外なほどの物足りなさを感じさせた。もう一度あの声で「タマ」と呼んでほしい、そう思っている自分に気づいて玉村はひとり動揺する。

「タマ」

 空耳まで聞こえてきた。医者に診てもらったほうがいいかもしれない。そのうち田口先生に紹介してもらおう。

「どこだ、タマ」

 空耳にしては随分リアルだ。起きたまま夢でも見ているのだろうか。頬をつねってみる。
 ……ちゃんと痛い。現実だ。

「タマ!」

 壁からふっ飛びそうな勢いで、ドアが開いた。部屋中の人間の視線が集中する。
 加納警視正だ。
 なぜかいつもよりボサボサの頭で、ネクタイもよれているけれど、正真正銘、加納達也警視正がそこにはいた。

「タマ、いるんなら返事しろよな」
「えっ、あの、警視正がなぜここに……」
「会いたかったぜ、タマ」

 困惑する玉村の下に、つかつかと加納が歩み寄る。

「タマ」

 ああ、やっぱり加納警視正は男前だ。思わず見とれて逃げ遅れてしまった。気がつくと玉村は加納の腕にすっぽり包まれていて、その肩越しに口をあんぐり開けた上司や同僚や部下が見えた。噂好きの女の子が、すごい形相で部屋を飛び出していく。あーあ、ひと月の間に修復した立場が完全崩壊だ。



「警視正は痛くも痒くもないかもしれませんけど、私は今後も桜宮署で働くんですよ。どうしてくれるんですか?」
「悪いな。久しぶりにタマのアホ面を見たら興奮した」

 謝りつつ侮辱するという離れ業を披露しながら、加納は煙草に火を点けた。吐き出した紫煙が、フロントガラスを撫でて空に立ち上る。

「だいたい、この車はどうして屋根がないんですか。寒いですよ」
「どいつもこいつもそれを言うな。眠気覚ましなんだ」
「ここに転がってますけど、どこにパトランプつけるんですか?」
「白鳥が楽しそうに頭に載っけてたよ」
「白鳥さん? じゃあ田口先生も一緒に?」
「ああ。不倫外来が9時から始まるらしいから、大急ぎで送って差し上げたんだ」
「それを言うなら不定愁訴外来じゃ……っていうか、私用にパトランプ使ったんですか?」
「もちろん。平均時速250キロだ」
「にひゃっ……だからそんなにヨレヨレなんですね」
「ああ。それと早くタマに会いたくて」

 玉村の矢継ぎ早な質問に間髪入れず答え、加納はにっこりと笑った。

「田口先生ごしにコキ使ってくれてありがとな、タマ」

 しまった。昨日は慌てていたから深く考えなかったが、多忙に多忙を極める出世頭・加納警視正の連絡先をほいほい教えて無事で済むわけがない。結局一晩かかったみたいだし、このままだと今日の仕事にも差し障る。

「すみませんでした。田口先生がお困りのようだったので、つい。軽率でした」

 頭を下げる。あふれた灰皿の一番上に、加納は新たな吸殻を乗せた。その手が、その指が、毎日想像していたものと寸分も違わぬことに胸がしめつけられる。まだ四季がひとめぐりする程度の時間しか一緒に過ごしていないのに、自分はもう十年くらい加納を追いかけている気がする。
 彗星の如く現れ、既存のものをぶち壊し、また消えていった男。桜宮署の伝説になりつつある一年間。玉村の心を揺さぶるには充分すぎた。パトカーに飛び乗るたび、パソコンを立ち上げるたびに、加納の残像が頭を掠める。
 吹きすさぶ風にさらされて玉村がくしゃみをすると、幌が勝手に動き出して屋根を作ってくれた。くしゃみ感知器でも付いているのかと驚いたが、こっそり手元で操作しているらしい。加納はついでとばかりにエンジンをふかし、黒塗りのベンツを発進させた。

「わあ、警視正、いま勤務中ですよ」
「構わん。デートしよう」
「なに言ってるんですか。本当に首が飛びますよ。今度こそお遍路行きです」
「それも悪くない」

 玉村は溜め息と共にシートベルトを装着した。これ以上の抵抗は無駄だ。なるようになれ。もうやけくそだ。

「……どうして私なんですか」
「あん?」
「警視正に言い寄ってくる人間なんていくらでも、それこそ男でも女でもいるでしょう」
「まあな。掃いて捨てるほどいて困る」

 皮肉のつもりで言ったのに、ふんぞり返って肯定されてしまった。

「それなら私みたいな妻子持ちのノンキャリアじゃなくて、もっとふさわしい相手を見つけたらどうです」
「俺はタマがいいんだ」

 加納は黄色信号の前でアクセルを踏み込み、スピードオーバーで大きな交差点を突破した。玉村の体がシートに押し付けられる。

「ちょっ、警視正、あそこで死亡事故が多発してるの知ってますよね? 安全運転してください」
「安全だと判断したから渡ったんだ。それよりどうしてタマなのかって質問だったな。順不同の理由一、俺を叱ってくれるのはタマだけだから。理由二、抱きしめてキスするのにちょうどいい大きさだから。理由三、自分の価値をわかっていないボンクラなタマが愛しいから。理由四以降は割愛する。エニ・クエスチョン?」

 今度は予告なしに急ブレーキがかかる。玉村は前につんのめり、車が停止すると座席からずり落ちた。

「な、なんですか一体。お願いだから事故らないでくださいね」

 軽い車酔いを感じながら体を起こし、玉村は周囲を見渡す。アーケード終点の交差点。右手には東城大学医学部付属病院。

「あ」

 一年前の事件の時、“地獄のモグラ”と“天国のでんでん虫”について加納に説明した場所だ。あのころ天国と称されていた碧翠院桜宮病院は、もうどこにもない。
 加納はなぜここに車を停めたのだろう。偶然か、それとも。

「覚えてるか?」
「はい」
「懐かしいな」
「そうですねえ」
「俺はこうやって、おまえと過ごしたちっぽけな想い出に縋って生きてるんだ」

 驚いて振り返ると、加納は無表情で前方を見据えていた。その横顔には、押し殺しきれない不安や苦悩がにじみ出ている。

「俺のために家族を捨てろなんて馬鹿なことは言わない。ただ傍にいて、いつもみたいに困った顔して笑っていてくれればいい。それじゃあ駄目か? タマ」

 駄目だと即答できない時点で、自分は妻と娘を裏切っているのだろう。
 ごめん。ごめん。ごめん。でも、好きなんだ。
 乱れた髪が急に愛おしくなって、手を伸ばした。どんな時だって完璧に整えているのに、こんなにして。
 加納の髪は、その唇と同じように見た目よりも柔らかい。強がってみせるけど心だって本当はもっとずっと繊細で、それを知っているのはたぶん自分だけだ。この場所は誰にも渡したくない。胸の奥から湧いてきた激しい想いを持て余し、玉村は加納の頭を引き寄せた。初めて自らキスをする。

「けいしせい、」

 ぎこちなく唇を離そうとすると、すかさず後頭部を掴まれた。強引に舌を突っこまれ、上顎をくすぐられる。
 たった数週間ぶりだというのに眩暈がして、玉村は加納の首筋にしがみついた。息が詰まるほど強く抱きしめられる。互いをどれだけ渇望していたのか、思い知らされた気分だ。

「好きです、警視正」
「やっと言ったな。その流れでプロポーズしてもいいんだぜ」
「……法が改正されたら考えます」
「じゃあ国会議員に立候補でもするかな」
「やめてください」

 耳元で加納が笑う。薄く生えた髭が、頬に当たってちくちくする。
 この恋は罪だろう。きっと誰も幸せになれない。でも、だけど、どうしても好きなのだ。周囲を攻撃することでしか身を守れない不器用なこの男が、どうしようもなく愛しいのだ。
 自分たちは、広大で難解な迷路の入り口に立っている。そこに結婚というゴールはなく、数え切れないほどの行き止まりが立ちはだかると知っている。もしかしたら四国遍路のほうが楽かもしれない。玉村は密かに溜め息をついた。
 だが、どっちにしろ加納と一緒ならば同じことだ。そう思うことにして玉村はもう一度、政治家への愚痴をこぼし始めた唇にキスをした。


end. (2009/2/28)
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