※このミス2009「青空迷宮」読後の妄想
三つ目の信号に引っかかったあたりから、加納は大人しくなった。玉村が横目でちらりと様子を伺うと、腕を組み瞑目したまま押し黙っている。昨夜は徹夜だと言っていたから、署までの僅かな時間を睡眠にあてるつもりだろう。
昨日、サイレンを鳴らして疾走した道を逆に辿りながら、玉村は慎重にハンドルを切る。左折、右折、また右折。加納は目を閉じたままだ。玉村はふと、腕の中で眠ってしまった娘をそうっと布団に運んだ日のことを思い出した。加納警視正は赤ん坊並みに手がかかる。
署に着いた頃には、だいぶ日が暮れていた。定位置まで車を徐行させ、玉村はそろそろとサイドブレーキを引く。エンジンを切ってシートに沈み込む。また桜宮署の検挙率が上がってしまった。早く報告しに戻らないと。さて、この問題児をどうやって起こそうか。
「見つめてるだけじゃ駄目だぞ、タマ」
「わっ、起きてたんですか」
加納はニヤリと笑い、シートベルトを外した。
「狸寝入りはやめてください」
「俺は寝てるなんて一言も言ってない。タマの思い込みだ」
「普通は寝てると思いますよ」
「“普通”なんて、この世にはありゃしないんだぜ」
まずい。放っておいたら、捜査に対する心構えがなってないとか、想像力の貧困が事件の迷宮入りを招くとかいうレクチャーが始まってしまいそうだ。玉村はシートベルトを外してキーを抜いた。加納は片頬を歪めて笑い、長い足を窮屈そうに組み直す。
「逃げる気か?」
「のんびり論議している場合じゃないでしょう」
「じゃあ急ごう。目を閉じろ、タマ」
威圧感のある言葉に押され、瞼を下ろす。この待っている時間が嫌いだ、と玉村は思う。するならさっさとすればいいのに、加納は舐めるように玉村を観察してからキスをする。だが、初めての時は突然だった。キスそのものより、加納の唇が見た目からは想像つかないほど柔らかいことに驚いたのを覚えている。
署内に停めた車の中で、闇に紛れて唇を重ねる。いつしか習慣のようになってしまったこの行為に、玉村は不思議と後ろめたさを感じていなかった。そして後ろめたさを感じないことに罪悪感を抱く。それでも加納に求められたら拒めない。
「ん」
舌を吸われ、唇を食まれる。溢れた唾液が顎を伝い、コートの襟を汚す。薄く目を開けると、眉間に皺を寄せた加納の顔がぼんやり見えた。
「タマ」
「はい」
「いいか。タマは目を閉じてるだけ。そうだろ?」
「……はい」
「グッド。行くぞ」
加納はぐいと口元をぬぐい、勢いよく助手席のドアを開ける。
「ちょっと、警視正、待ってください」
人の心に土足で上がり込んでくる加納は、いなくなる時も勝手だ。引き止めようとしてもドアを蹴破り出ていってしまう。きっとそう遠くない将来、この桜宮署からも姿を消すのだろう。
その日の訪れが一日でも遅いといい、できることなら永遠に来なければいい。自分の脳裏に浮かんだ非現実的な願望を打ち消し、玉村は車を降りた。
「遅刻魔のタマちゃん、早くしないとまた叱られるぞ」
「サボリ大王の加納警視正に言われたくないです」
立ち止まって頭上を見上げていた加納は、玉村が追いつくと再び歩き出した。
数時間前まで青く澄み渡っていた空には、少し欠けた月がひっそりと浮かんでいた。
end. (2009/2/18)
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