モラトリアム

 日当たり良好。自販機まで5秒。学食の中ほどに位置する4人がけのテーブルが、自分たちの指定席である。
 朝は掲示板を見るよりも先にそこへ向かう。昼休みにはどこからともなく集まって、4人そろって食事を取る。帰りは全員の授業が終わるのをそこで待つ。約束などしていないのだが、いつの間にやらそういうことになっている。どんなに忙しい日でも最低一度は顔を出しに現れるくらいなのだから、みんなこの空間が気に入っているのだろう。
 芸術的に美しく巻けた卵焼きを頬張りながら、黒羽はにんまりと笑った。隣に工藤、正面に服部、斜め前に白馬。自分は恵まれている。心底そう思った。

「黒羽、何にやにやしてんねん」

 遅れて席に着いたのに、服部の日替わり定食はあらかた片づいていた。その口元には生姜焼きのタレがついている。白馬は見て見ぬふりに失敗したらしく、黙ってポケットティッシュを手渡した。
 白馬が食べているのは黒羽と同じく自家製の弁当だ。ただし家庭的とは言いがたい代物で、黒羽にはシェフの幻覚が見えそうだった。実際、食後のデザートを届けに登場したこともある。

「今日の卵焼きうまくできたなーって。極めようとすると案外難しいんだぜ。目でも味わえよな、新一」
「わりい、もう食っちゃった」
「見てから食えよ! せっかくきれいにできたのに! 味だって新一好みになるように研究してんだけど!」
「へーへー。どーもな」
「黒羽くん、公共の場では声のボリュームを下げたまえ」
「講義中でもあるまいし、かまへんて」

 桜でんぶと鮭フレークを駆使して完成させたハートのグラデーションを惜しげもなく崩し、工藤は黙々と箸を口に運んでいる。黒羽は頬杖をついてその様子を眺めた。なんだかんだ言って、自分の作ったものを工藤が食べているという事実だけで報われてしまうのだ。
 彼の破綻した食生活を見かね、弁当を用意してあげるようになってからずいぶん経つ。派手な盛り付けに抵抗したのは最初の1週間ほどで、今は海苔で描いた「新一LOVE」の文字を見ても動じない。工藤新一は恐ろしく順応性の高い男なのである。

「あ! 俺、午後休講になったんやけど」
「僕はもともと空いてるよ」
「俺も」

 となると、これから授業の予定があるのは黒羽だけだ。急速にやる気が失せていく。

「マジかよー。俺もサボっちゃおうかなあ」
「俺もって何や。こっちはサボるんとちゃうで」
「おい、金曜3限って必修だろ? 何回目だよ。単位落としても知らねえぞ」
「だいじょーぶ。あの授業出席とらねえし、テストできれば平気だから」
「いざ試験当日になって、受験資格が剥奪されてましたなんてことにならないといいね」
「白馬てめー、縁起でもねえこと言うな」
「でもほんま、必修落としたら就活に影響すんで」

 服部の口から出た「就活」という言葉が意外で、黒羽は身を乗り出した。

「え、なに、平次ってリクルートスーツとか着てシューカツしちゃうの?」
「俺か? 俺はたぶんせえへんけど」
「僕も普通の就職活動はしないだろうね。工藤くんは?」
「俺もしねえな。快斗はどうすんだよ」

 3人の視線が黒羽に集まる。

「……するように見えるわけ?」

 一瞬の間のあと、全員で腹を抱えて笑った。まわりから注目されているのがわかったけれど、どうでもよかった。
 金がなければ時間を有意義に使えない連中とは違う。会話しているだけで日が暮れて、次の朝がやって来た。話す内容は何だっていい。今日の天気でも、昨日起きた殺人事件のことでも、将来の夢でも構わない。言葉のキャッチボールがここまで楽しいと思える相手は、父親のほかでは初めてだった。
 泣きたい時は黙ってそばにいてくれる。嬉しい時は一緒になって喜んでくれる。馬鹿なことをしそうになれば本気で叱ってくれる。ストレートに表現するのは服部くらいだが、工藤と白馬も同じ気持ちでいるはずだ。無条件に確信できた。だから黒羽も、彼らが困っていれば何もかも投げ出して助けにいく。時や場に応じてライバルとして対立することがあっても、心は繋がっていた。

「あー、昼休みが終わっちまう」
「いつまでグダグダしてんだ。さっさと行ってこい」
「せや。待ってたるさかい」
「たったの1コマだろう。おとなしく受けてくるんだね」

 しばらくテーブルに伏して駄々をこねていたものの、3対1では分が悪い。ショルダーバッグを手にしぶしぶ席を立つと、その中に返却期限が本日までのDVDが入っていることを思い出した。

「あのさ、帰りにツタヤ寄ってもいい? DVD返さねえと」
「俺も本屋行きてえ」
「ああ、僕も」
「なんや、またいつものパターンか」

 服部が大きな声で笑い、それにつられて爆笑しているうちにチャイムが鳴ってしまった。

「やっべ! んじゃ行ってきます!」

 一番近い出入り口のドアを押し開けていると、「終わったら走って戻ってこいよ!」という工藤の声が飛んできた。振り向かずにひらりと手を振って応じて、講義のあるB棟へ急ぐ。90分後に今よりも慌てて走る自分の姿が浮かんで、黒羽は苦笑した。
 外階段を駆け上がれば、空に迫ったぶん太陽の光が威力を増して降り注ぐ。僅かのあいだ目の前が白くなった。瞬きを繰り返し、夏を切り裂いて前へ進む。あいつらと共に過ごせる季節はあといくつ残されているのだろう、数えかけて途中でやめた。今の黒羽には、今日の放課後をどこでどう楽しむかのほうが重要だった。
 卒業という形で終わりは必ずやってくるのに、自分はこの日々がずっと続くと勘違いしている。しかもそれを自覚しながら、意識を改めようとしない。もう少し夢みててもいいじゃん、と思う。
 人間は過ぎ去ってから気づく愚かな生き物で、大切さを思い知った時にはすでに手遅れの場合が多い。だが、身に染みて理解している黒羽にも、できることはひとつしかない。ただ今を全力で生きる、それだけだ。単純な答えに辿り着いてから、息をするのが楽になった。隣には工藤たちがいた。
 近い将来、道は必ず分かたれる。それまで騙され続けるのも悪くないだろう。どうせなら未来の自分が羨むくらい、とびきり幸せな毎日を過ごすのがいい。そしていつか、別離の悲しみすら軌跡のひとつになってしまえばいい。

「あっちいな」

 一筋の汗が背中を伝う。日に日に濃くなる影を飛び越える。
 黒羽はポケットに手をつっこんで携帯を取り出すと、「31も寄りたい」という簡潔なメールを一斉送信した。


end. (2010/6/14)
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