深海

 いい夢を見た。
 すでにぼんやりとしたイメージしか残っていないが、やわらかくてあたたかくて、まるで母親の胎内に戻ったような気分になった。圧倒的な安心感と無償の愛は、ささくれ立った心をやさしく包んで癒してくれる。コナンはそれを夢だと自覚しながら身を委ねていた。あまりの心地よさに、このまま目が覚めなくても構わないとさえ思った。
 そんな完璧な眠りを妨げたのは、少しの振動と甘い香りだった。

「……ん、」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」

 頭の上から声が降ってくる。首をのけぞらせて声の主を見上げると、至近距離でまともに視線がかち合った。あきれるくらいに密着している。つまり、コナンは快斗の足の間で熟睡していたのである。小さな体は学ランですっぽりくるまれていて、身動きが取れない。過保護、とコナンは心の中で呟いた。
 探偵と怪盗の本来のあり方から激しく逸脱していることはわかっている。悪あがきをやめて一度寄り添い合ってしまえば、こうなるまでに時間はかからなかった。坂道を転がり落ちるようにというよりは、呼吸のできる水の中を、快斗と共にゆっくり沈んでいくみたいな感覚だった。

「それ、ココアか?」

 快斗は右手にマグカップを持っている。甘い香りはそこから漂ってきているらしい。

「うん。新一も飲む?」
「ひとくちでいい」

 両手で包み込むようにしてカップを受け取った。すると快斗の手がその上に重ねられ、ご丁寧に口元まで運んでくれる。子供扱いするなと文句を言いたかったが、おいしそうな香りに気を取られてタイミングを逃してしまった。快斗の好みで濃い目に作られたココアは、小学生の味覚にちょうどいい。ひとくちと言いながら残量の半分くらいを飲み干すと、快斗が声に出さず笑った気配がした。

「俺、いつから寝てた?」
「2時間くらい前。寝不足だったの? すげーよく寝てたけど」
「や、別に」
「ふーん。それにしても、やっぱおこちゃまってあったけーのな。湯たんぽみてえ」

 長いあいだ密着しているせいで、コナンの体温はすっかり快斗に移っていた。境界線すら曖昧になりそうだ。背中には、自分よりも幾分ゆったりした鼓動を感じる。自然と呼吸が重なり合う。こんなふうに他人と触れ合うなんて、しばらく前まで考えられなかった。

「……ほんと、ちいせえな」

 コナンの体は、快斗が両腕で抱えるには小さすぎる。すり抜けていってしまうことを恐れているみたいに、快斗は腕に力をこめた。全身で抱きしめられる。わずかに癖のある髪が頬をくすぐり、吐息がうなじを撫でた。
 いつか、とコナンは未来を想像する。いつか同じ力強さで快斗を抱きしめ返せるようになったとき、はたして自分はその手を伸ばすのだろうか。
 工藤新一に戻って「コナン」という不可抗力から解放されれば、言い訳はきかなくなる。二人の関係を異常事態のせいにできなくなる。手を繋いだまま同じ歩幅で歩き出すか、ほどいた手を振って別の道を行くか。選択せねばならない日は必ずやって来るのだ。快斗の心は最初から決まっている。あとは新一が答えを出すだけだった。

「なあ、新一」
「……なんだよ」

 不安と恐怖に神経をすり減らし、小学一年生という安寧に飲み込まれそうになる日々のなか、「新一」と呼ぶ快斗の声ほど己を奮い立たせてくれるものはない。死ぬんじゃねえぞ。諦めんな。好きだよ。名前の裏に隠された想いがあふれ、声色に滲み出る。
 快斗の声が苦しいくらい胸にしみて、コナンはきゅっと眉を寄せた。答えに悩む必要などないと本当はわかっている。快斗が泣いたり笑ったり怒ったりするのを、誰よりも近くで見ていたい。同じ景色を目に映して、同じものを一緒に食べて、大事なこともバカみたいなことも、たくさんたくさん話したい。思っているだけでは伝わらないのに、この口から出ていくのは可愛げのない言葉ばかりだ。不器用な自分が嫌になる。

「お前、事務所だと気ぃ張ってんだろ。たまに寝に来いよ。肩でも膝でも好きなだけ貸すから。泣きたい時は俺の胸で泣けばいいし」
「誰が泣くか。大きなお世話だっつーの」

 知らず知らずのうちに弱っていたのだろうか。快斗の優しさに意外なほど揺さぶられて、鼻の奥が本当につんとする。それからじんわりと嬉しさが広がり、そう言われるのを望んでいたのだと自覚した。
 快斗はいつだってコナンの思考を先回りして、両手を広げて待っていてくれるのだ。最初こそ悔しさが先に立ったけれど、今は疑問のほうが大きい。こいつはどうして俺の気持ちがわかるんだろう。なぜ俺のために命を投げ出してしまえるんだろう。俺のどこがいいんだろう。疑問は尽きることがない。

「……快斗」
「うん?」
「お前さ」
「うん」
「なんでいつも、こんな」

 声が震えた。だが、かっこ悪いと思うよりも強く「なぜ」の答えが知りたかった。

「……こんなに、してくれるんだよ。俺はお前に、なんにも」
「ストーップ」

 声と共に、ふわりと体が浮く。コナンは軽々と抱き上げられ、向かい合う形で快斗の膝に乗せられた。今は顔を見てほしくなかったのに。
 うつむいていると、男にしては綺麗すぎる指が優雅な仕草でコナンの顎を持ち上げた。鮮やかだった。愛おしさに満ちた眼差しが近づいてきて、あっと思った時にはすでに唇が重なり合っていた。なんだかやたらと甘い。さっき飲んだココアの味だ。思い至ると同時に我に返る。

「ん、おい、快斗っ」
「いやー、どの口があんな可愛いこと言ったのかなあと思って」
「ふざけんな! こっちが真面目に聞いてんのに茶化しやがって」
「ごめん。でも嬉しすぎて止まんなかった」
「喜ばせるようなこと何も言ってねえだろ」
「言った。言ったよ」

 めいっぱい抱きしめられた。快斗の腕の中で溺れそうになる。愛の密度に眩暈がする。
 しなやかな筋肉の下では心臓がいつになく高鳴っていて、快斗もまた海のただ中にいることを知った。

「新一、頼むから何もできないなんて思わないで」

 「でも」と反論する前に、快斗はもう一度「頼む」と繰り返した。

「よく聞けよ。俺にとって、新一は生きてるだけで奇跡だから。そこにいてくれるだけで十分すぎるの。俺はお釣り返さなきゃいけないくらいなの。わかる?」
「生きてるだけでって……母親みてーなセリフだな」
「笑ってもいいよ。でもほんとだから」
「……笑えねえって」
「ははっ。新一だいすき!」

 腕の力が緩まったと思ったら、今度は額にキスされた。あきれ返って見つめる先、満足そうな快斗の笑顔は夕陽に照らされてオレンジ色に染まっている。もうすぐお別れだ。暗くなる前に帰らなければ蘭が心配する。
 きっと快斗は今日も送り届けてくれるのだろう。「一人で帰れる」という主張が聞き流されるのはいつものことだ。コナンの姿がドアの向こうに消えるまで、快斗は事務所の階段を見上げ続ける。まったく、この過保護ぶりだけはどうにかしてほしい。
 しかし今日は。今日だけは、手を繋いで帰ってもいいかもしれない。


end. (2010/5/25)
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