おもいで

  レースのカーテンをふくらませ、ぬるい風がリビングを吹き抜けていく。床に転がった快斗の髪もカーテンと一緒にふわふわ揺れる。テレビと快斗の両方が沈黙しているから、その午後は珍しく静かだった。本のページをめくる乾いた音さえはっきり響く。
 どうにも落ち着かない。だが自分から声をかけてやるのは癪だったので、新一は空になったコーヒーカップを持ち上げた。わざとコン、と音を立ててテーブルに置く。快斗はすぐに体を起こした。

「あ、おかわり飲む?」
「飲む」

 カップを手に、キッチンへと消える快斗の後ろ姿を見送る。裾の擦り切れた学ランのズボンがみっともない。上半身は派手なTシャツだ。その上に着ていた白いワイシャツは、律儀に畳まれて荷物の傍に置いてある。
 荷物というのは快斗が通学に使っている薄っぺらいカバンで、けれど新一はその中に実に様々なものが入っていることを知っている。例えばウィッグとかワイヤー銃とか催涙ガスとか。

「それ、つまんないの?」
「え?」
「さっきからずっと同じページだけど」
「うっせ」

 図星だった。錚々たるメンバーの短編小説を集めた本格ミステリの新刊だったが、どれもこれも二番煎じの感が否めない。快斗がおとなしい時に限ってハズレに当たるのはなぜなのか。

「もうすぐ夏だねえ」

 そう言いながら新一の隣に腰かける快斗は、アイスココアを飲んでいる。新一の前に置かれたのもアイスコーヒーだ。勝手にアイスにしやがってと思う反面、氷がグラスにぶつかる涼しげな音を聞いた途端に、これが飲みたかったんだという気もしてくる。自分でも意識していない気持ちを先読みされるのは、すごく悔しい。

「気が早い。その前に梅雨があんだろが。ジメッジメの梅雨が」
「そのジメッジメの梅雨のさなかに俺は生まれたんですけど」
「ああ? そうだっけ」
「そうです」

 もう読書は諦めた。栞を挟まずにグラスの向こうに本を置く。これを読むよりも、快斗との無為な会話を楽しんだほうが有意義な時間を過ごせそうだった。

「さっき考えてたんだけどさ、今年の夏は青春っぽいこといっぱいしようぜ」

 先ほど少しばかりおとなしかったのは、何やらしょうもない計画を練っていたためらしい。

「あのなあ、俺たち仮にも受験生だろ」
「勉強なんて必要ねえじゃん。高校最後の夏、楽しまなかったら損だって」
「お前、必死で勉強してる全国の受験生に謝れ」
「旅行いこうよ。海とか山とか。浴衣着て花火大会もいいな。平次も呼んでさ。あいつ浴衣の着付けうまそうじゃん。俺もできるけど」
「俺だってできるっつーの。てか何だよ急に。浴衣で花火って、んなベタな」
「それだよ」

 快斗は大真面目な顔でうなずいた。

「俺はベタなことがしたいんだ。新一といかにも青春らしい思い出が作りたいんだよ。だって俺らの日常ってなんかおかしくないか? 汗水たらして部活動に励むでもなく、はにかみながら制服デートをするわけでもない。血生臭い殺人現場をうろついたり、警察と追いかけっこしたり、よく考えると普通の男子高校生としてちょっと変だろ?」
「俺はともかく、お前が普通って」
「いいか、新一。18の夏は一生に一度しかないんだ。自宅と現場の往復だけじゃもったいないぜ。たまには平穏で人並みの思い出を作ってみようじゃないか」
「お前と?」
「そう。俺と」

 快斗は自信にあふれた表情で力強く言い切る。主張はわかった。賛同するかどうかは別として。
 ふと視線を落とすと、いつの間にか膝の上にカップル向けの旅行ガイドブックが乗っていた。新一はげんなりする。

「どこ行きたいんだよ」
「新一と一緒ならどこへでも。とりあえず海と花火は外せない」
「あ、そ」
「男同士が嫌なら俺、女のカッコするし」
「バーロ」

 快斗の頭を軽く小突いてから、カラフルな紙面をめくってみる。付箋や折り目がいくつもついている上に、「日帰り可能」なんてメモも書き込んであった。いつ警視庁から応援を要請されるかわからない新一に対する、快斗なりの譲歩なのだろう。チェックしてあるのはそう離れた場所ではなく、日帰りできる穴場のようなスポットばかりだ。
 かわいいところもある。新一はあたたかい気持ちでページをめくっていたが、ガイドブックの中盤あたりで違和感を覚えた。数ページがまとめてホッチキスで止められているのだ。しかも何ヶ所も厳重に。これでは記事を読むことができない。

「快斗」
「うん?」
「どしたんだ、ここ。なんか止まってるけど」
「ああ、気にすることねえから」

 快斗は視線を左右にさまよわせ、決して合わせようとしない。その態度ですぐにピンときた。デートスポットの定番で、快斗が嫌がる場所といえば。

「水族館か」
「わあああああ! 言うな! 言うんじゃねえっ!」
「よし、まずは水族館にしようぜ」
「新一のいじわる……!」

 本当にかわいいところもあるもんだ。涙を浮かべる快斗を横目で見つつ、冷蔵庫に魚はあったかな、と考える。隣の科学者は快斗が魚嫌いなことを知っていてわざと、幼なじみの少女は何も知らずに完全なる親切心で、ときどき魚を差し入れしてくれるのだ。
 そういえば腹が減ってきた。日はだいぶ傾き、開け放した窓からどこかの食卓のいい香りが漂ってくる。

「快斗、晩飯どうする」
「……な料理じゃなければ、俺は何だって食う」
「出前でいいか?」
「んー、ここんとこ店屋物ばっかりだからなあ。何か作るよ」
「材料ねえぞ、たぶん」
「買ってくる」

 快斗が財布の中身を確認しているのを見て、新一はここぞとばかりに切れかかった日用品をリストアップした。

「あ、ついでにミネラルウォーター買ってきてくれ。箱で」
「箱かよ」
「あとティッシュと洗剤も」
「一人じゃ持てねえって。新一も一緒に来いよ」
「めんどくせえ」
「俺、今日チャリンコだから。後ろに乗っててくれればいいし」

 ね? とにっこり微笑まれる。この顔を向けられたら、大抵の人間は自動的に首を縦に振ってしまうだろう。営業の仕事でもしたら威力を存分に発揮できるのだろうが、あいにく快斗がサラリーマンになる予定はない。
 快斗の未来を思い浮かべるとき、彼はたくさんの愛する人々に囲まれて幸せそうに笑っている。その人垣のどのあたりに自分がいるのか、はたまた輪の外側にいるのか、わからない。ただ、できるだけ傍にいたい。そう思う。
 気持ちのいい笑顔に見とれているうちに、靴を履かされ、玄関から押し出された。エントランスにママチャリが停めてある。カゴと荷台のついたママチャリは何かと使い勝手がいいらしく、安く買ったわりに重宝しているようだ。快斗は門まで愛車を転がし、道路に出てからサドルに跨った。

「ほい、乗って」
「ん」

 別にしっかり掴まる必要もないのだが、快斗の腰にぎゅっと腕を回した。ついでに目の前の背中に頬をくっつけてみる。あたたかい。30分も走れば、今はサラサラのこのTシャツも汗でしっとりするだろう。「もうすぐ夏だねえ」という快斗の声が頭の中で響いた。
 季節が巡るたびに、小さな思い出が増えていく。前回二人乗りをしたとき、快斗はジャケットを着ていた。その前はマフラーも巻いていた。今日は半袖のTシャツ一枚だけだ。記憶も変化もすべてが愛おしくて、もっと留めておきたくなる。

「んじゃ出発しまーす」
「お前、買い物行くと長いんだから早くしろよ」
「へいへい」

 こぎ始めにもたつくこともなく、快斗の愛車はスムーズに走り出した。徐々にスピードが上がる。頬を切る風が心地いい。

「あーあ、俺も平次みたいにバイクほしいなあ」
「免許取るのが先だろ」
「うん、まあそのうち。金かかるし、今年の夏は忙しいし」
「今日とか思いっきり暇じゃねえか。うちじゃなくて教習所に行けよ、教習所に」
「暇とは失礼な! 新一と会うのは超重要なことなんだよ!」
「ばっ……でけー声で恥ずかしいこと言うな!」

 他愛のない会話をしながら、自転車を二人乗りして夕飯の買い物に行く。当たり前のことだと笑う人もいるだろうが、新一と快斗にとっては眩暈を感じるほどの幸せだった。失いたくない。忘れたくない。この瞬間の風の匂い、木々の色、触れ合った体温、ひとつ残らず憶えておきたい。

「なあなあ、夕陽に向かって自転車でひた走るとか、すげー青春っぽくね?」
「確かに。浴衣で花火より男らしくていいんじゃねえの」

 スーパーまでの道のりで唯一の信号に引っかかった。カチリとギアを切り替える音が聞こえる。

「……あのさ、しんいち」
「ん?」
「好きだよ」

 快斗はそれきり何も言わない。新一はもっと言えない。やたらと長い赤信号がじれったい。
 いつかこの日を懐かしく思い出すとき、「青春してたなあ」と共に笑い合えたらいい。
 今日も明日もあさっても、幸福の種をたくさん蒔こう。
 自分のために。相手のために。未来の二人のために。


end. (2010/5/2)
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