黒い海
その日は想像よりもずっと早く来た。少し肌寒い、雨が降りそうな午後だった。
「大学を出たら、すぐ蘭と結婚しようと思ってるんだ」
新一は快斗が淹れたコーヒーに向かって話しかけていた。照れ臭かったのだ。顔を見られなくて助かったと思った。自分を失ったのは一瞬だけで、ことさら明るい声で「おめでとう」と言えた。こういうのは第一声が大事だ。どうしたって本音が漏れる。
「え、すぐっていつだよ」
「まあ夏までには」
「1年もないじゃん。てか新一、いつの間にプロポーズしたの」
「それはまだ」
「は!? なんで俺に報告するのが先なんだよ。順番おかしいだろ」
なんでだろうな、と新一は笑った。快斗も笑った。ポーカーフェイスが得意で助かった。本当は声を上げて泣きたかった。
結婚式では友人代表のスピーチをしてほしいと頼まれ、快諾した。なんなら余興もやろう。平次と一緒にやれば盛り上がるに違いない。
純白のウエディングドレスに身を包む蘭は、息を呑むほど美しいだろう。快斗にははっきりと思い浮かべることができた。隣に立つ、黒いタキシードを着た新一の姿も。園子や和葉が大泣きしているところも想像できる。まるで回想しているかのようだ。何度も何度も頭の中で予行演習しているせいだ。ただ、本番はもう少し先だと思っていた。まだ心の準備ができていなかった。
雨が降りそうだから、という理由で快斗は新一の家を後にした。珍しいことだったが、新一も強くは引き止めなかった。一人で考えたいこともあるだろう。まだプロポーズすらしていないのだから。
庭を突っ切り、背丈よりも高い門扉を引いて外に出ると、体の力が抜けて地面にへたり込んだ。表札のついた壁を背にして膝を抱える。よく普通に会話ができたものだ。俺はちゃんと笑えていたのか? 頬を触ると涙で濡れていた。笑顔を張りつけたまま、快斗は泣いていた。
どれくらい経ったのか、時間の感覚がまったくなかった。いつの間にか降り出した雨で全身がずぶ濡れになっても立ち上がれず、このまま死ぬんじゃないかと思うくらい寒かった。
「あなた、何やってるのよ」
急に雨がやんだ。
「黒羽くん、どうしたの? 何があったの」
宮野志保がいた。雨がやんだのではなく、彼女が傘を差し掛けたようだった。
「……新一が」
「工藤くん? 喧嘩でもしたの?」
「結婚するって」
志保の顔がこわばった。唇が小さく震え、それからきゅっと引き結ばれた。志保は自分よりよほど強い、と快斗はぼんやり思った。
「そう。おめでたいわね。それよりあなた、このままじゃ絶対に風邪ひくわよ。うちに来なさい」
志保は快斗の返事を待たずに立ち上がり、先に歩き出した。再び雨が降り始める。隣家までは数十メートル。すでにこれだけ濡れているのだから、傘があろうとなかろうと変わらない、ということだろう。快斗はのろのろと腰を上げ、赤い傘を追いかけた。スニーカーの中にも雨が溜まり、歩くたびにひどく不快だった。
阿笠博士は留守らしい。志保は玄関、廊下、リビングと次々に電気を点けてまわり、タオルを取ってくるからそこで服を脱げと快斗に命令した。川に落ちて岸まで泳いだ人間のようにぐっしょりだった。脱いだ服を足元に落とし、下着1枚になったところで、志保がバスマットとバスタオルを持って飛んできた。
玄関マットの上にバスマットを敷き、そこで体を拭いた。風呂から上がったような気分になったが、体は氷のように冷え切っている。手が震えて、まともに水滴をぬぐえない。
「貸して」
見ていられなかったのだろう。志保が手を出してきた。拭き始めてすぐ、体が想像以上に冷たいことに驚いたのか、家の中へと引っ張り込まれた。
「私の部屋、暖房つけてきたから。拭いたら布団に入って体を温めたほうがいいわ」
志保の部屋は整然と片づけられ、壁は本で埋まっていた。かわいらしいぬいぐるみなどは一切ない。しかしこの部屋の主がきめ細やかな女性であるということはあちこちから感じられ、快斗はそれを好ましく思った。
「志保ちゃんの部屋、かわいいね」
「どこが? 男の部屋みたいじゃない」
「全然ちがう。かわいいよ」
「なに言ってるのよ。下着も脱いで、早く入って。博士の買い置きの下着、取ってくるから」
「いらない」
最後の1枚も脱いで、志保のベッドに滑り込んだ。甘いにおいがする。
「全裸ってわけにはいかないでしょう。待ってて」
「いかないで」
志保の手を掴む。熱く感じるのは自分が冷たいせいだ。そのまま志保を布団の中に引きずり込む。
「ちょっと、黒羽くん!」
「あっためてよ」
素早く手足を絡め取り、ぴったりと体を密着させた。やわらかく、あたたかい。本気で抵抗する気はないらしく、志保の手は逡巡していた。白い喉に吸いつくと、ため息と共に快斗の頭を抱き寄せた。
指先にまで体温が戻るには、ずいぶん時間がかかった。そのころには志保も服を脱いでいた。暖房がフル稼働しているおかげで室温はぐんぐん上昇している。今度は汗だくになりそうで、快斗はリモコンをたぐり寄せて設定温度を下げた。
「……いいの?」
我ながら間抜けだな、と思いつつ最終確認をすると、志保はいつものようにしれっと言った。
「だめって言ったらどうするわけ?」
「説得する」
快斗が真剣に言うと、志保は目を細めた。馬鹿ね、という形に唇が動いた。
新一への想いは墓場まで持っていくつもりだった。困らせたくなかった。こんなに、こんなに好きなのに、俺は新一を幸せにできない。それは俺の役目ではない。わかっていても、どんなに突きつけられても、気持ちは止められなかった。
志保が掠れた声で「くどうくん」と呼んだ。目尻から零れ落ちた涙がシーツに吸い込まれていく。
「好き、だったの。ずっと」
喘ぐようにも縋るようにも聞こえた。この声が新一の耳に届くことは、きっとない。志保が新一の幸せを望む限り。
「俺も……好きだった。大好きだった」
志保が両手で顔を覆う。嗚咽が漏れる。震える肩をできるだけそっと抱きしめながら、快斗も泣いた。
雨は一晩、やむことがなかった。月も星も見えない。黒い海のような空だった。
end. (2015/5/23)
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