雷ニモマケズ

 帰宅するべく電車に駆け込み、ほんの少しうつらうつらしている間に、雨が降り出したようだ。欠伸をしながら顔を上げると、正面の窓ガラスにたくさんの雨粒がついているのが目に入った。「今日は1日晴れるみたいですよう」というカイトの言葉を信じて折りたたみ傘を置いてきたのは失敗だったか。いや、カイトは天気予報をそのまま伝えただけで、悪気は微塵もないだろうが。
 最寄り駅からアパートまでは早足で歩いて5分ちょっとかかるため、本降りだとかなり濡れてしまう。カイトに傘を持ってきてもらうかと携帯を取り出したが、運悪く電池切れだ。
 思わず溜め息がこぼれた。ついてない日はとことんついてない。忘れ物はするし、取引先との営業はうまくいかないし、最後は雨まで降ってくる。自分が要領のいいほうだとは思っていないけれど、こうも嫌なことが続くと気分が滅入る。
 早く帰りたい。早く帰ってカイトの顔を見て一緒に風呂にでも入ってと思ったところで、カメラのフラッシュのようなものを感じた。直後、ゴロゴロという低い音が響く。

「うっわ、雨だけじゃなくて雷もかよ」
「てか傘ないじゃん。どーすんの」

 近くのカップルがうんざりした声で言い合うのを迷惑そうに横目で見ている乗客もいたが、俺はそれどころじゃなかった。自分が濡れるのもどうだっていい。カイトは雷が大の苦手なんだ!
 かなり遠くで鳴っている雷なのに、ひどく怯えて布団の中で小さくなっていることもあった。こんなに近くで光っているのは初めての経験だろう。しかも今はひとりで留守番中だ。万が一、うちのアパートに落ちることでもあったら、あいつはショックで気絶してしまうかもしれない。頼む、無事でいてくれ。
 最寄り駅に到着するのを祈るような気持ちで待ち、ドアが開いた瞬間、車両を飛び出した。「すみません、通してください」と人混みをかき分けながら、大急ぎで改札を駆け抜ける。まるで駆け込み乗車の逆再生みたいだ。
 駅の構内で傘を買うことなんか思いつきもせず、どしゃ降りの中を駆け出そうとした俺の視界の端に、青が映った。カイトだ。柱を背にしゃがみこんでいる。

「カイト!」

 慌てて走り寄ると、カイトは力なく笑った。

「あ……マスター、気づいてくれてよかった。俺、マスターのことわかったんですけど、なんか急いでるみたいで追いつけそうもないなって思って……」
「バカ! お前のために急いでたんだよ! カイト、雷苦手だろ? つーか、こんなとこで何してんだよ」
「……かさ」
「え?」
「傘です。迎えに来ました。今日の朝、俺が晴れるって言ったから、傘置いていっちゃったでしょう。ごめんなさい」

 カイトは座ったまま不自然に頭を下げてしょんぼりしている。図体は不必要にでかいが、顔だけ見ると叱られた仔犬のようだ。どうやら俺が怒ってると信じきっているらしい。俺はそこまで心の狭い人間じゃない。心外だ。それよりも、腰が抜けて立ち上がれなくなるほど雷が嫌いなのに外に出て迎えに来るなんて、こいつは本当にバカだ。

「バカ。バカ。バカイト」
「……すみません」

 ますますうな垂れるカイトの両頬を掴み、顔を上げさせた。海の青とも空の青とも違う、不思議な色を宿した目には涙が溜まっている。カイトが泣き出すと長い。大の男ふたりが地べたに座って揉めているというだけで、充分に注目を集めているのだ。これ以上目立つことは避けたい。
 ちょっとまずいかな、とは思ったけれど、俺は迷わずカイトの頭を抱き寄せた。青みがかった柔らかい髪を撫でてやる。カイトを泣き止ませるには、これが一番てっとり早いからだ。

「カイト。俺は別に怒ってない」
「でも……おれのせいで、マスターが雨に……」
「まだ濡れてねえし。カイトが迎えに来てくれたから」

 すん、と鼻をすする音が聞こえる。スーツに鼻水つけてないだろうな。

「それに、雷こわかったのに頑張ってくれたんだろ? ありがとな」
「こ……、こわかった、れす……!」

 結局、カイトはわんわん泣いた。いい子いい子を続けてなだめすかして、コンビニで買ってきたアイスをふたりで半分こしたらやっと泣き止んだ。その頃には雷もほとんど過ぎ去り、細い雨がしとしと降っているだけだった。

「なあ、そろそろ帰ろっか」
「はい。あの、マスター、ごめんなさ」
「謝んなって言っただろ」
「……はい」
「ん。傘」

 カイトが差し出した傘を開く。俺がいつも使ってるグレーのやつだ。振り返ると、カイトは手ぶらで突っ立っている。

「おい、そういえばお前の傘は?」
「マスターの分しか持ってきませんでした」
「はあ?」
「来る時はそれを借りましたけど、帰りのことは考えてなかったです」

 今日何度目かの溜め息をつく俺の手から、カイトはやさしく傘を奪い取った。

「俺が差します」

 確信犯だったら殴ってやると心の中で毒づきながら、余裕を取り戻し始めたカイトの笑顔を見上げる。作り物だからだろうか、その笑みは完璧に整っていて俺を落ち着かなくさせる。さっきまで鼻水たらして泣いていた奴と同一人物とは到底思えない。というか思いたくない。
 俺が標準より小さくとも、カイトが標準より大きい。当然、ふたりでひとつの傘に入るには無理がある。にもかかわらず俺がちっとも濡れていないということは、カイトが半分くらいはみ出しているのだろう。普通に差せと注意したってどうせ聞かないに決まってるので、俺は仕方なく黙ってカイトに身を寄せた。明らかに動揺して歩みが遅くなるカイトがおかしい。

「マスター」
「なんだよ」
「遠回り、してもいいですか」

 いつもの心地よいテノールが掠れていた。「勝手にすれば」と答えた俺の声はもっと頼りなかった。カイトにつられて、こっちも変に意識してしまう。自分の意思とは関係なく心臓まで煩くなってくる。
 カイトは傘の柄を短く持ち直して、足が動かなくなってしまった俺の顔を覗き込んだ。空いた手で頬を包まれる。窺うように傾げた首の角度が、触れた肩の体温が、やさしくてやさしくて泣きそうになる。カイトが俺に与えるものは、すべて愛と言い替えてもいいくらい柔らかくて温かい。何もかも、たとえば沈黙でさえも。

「マスター」

 じりじりと距離を詰める青い瞳に吸い込まれそうだ。いや、蒼? それとも藍? カイト色ってことでいいか。
 そんなことよりキスの時は目を閉じるんだって、帰ったらもう一度教えなければ。


end. (2009/8/31)
ブラウザを閉じてお戻りください

inserted by FC2 system