恋の病に効く薬

 身体の異変に気づいたのは、いつものようにマスターを会社に送り出し、朝食に使った食器を洗い、あちこちに散らばった洗濯物を拾い集めている時だった。
 喉がおかしい。唾を飲み込むとちくりと痛む。腫れているわけではなさそうだが、感じたことのない違和感に俺は思わず顔をしかめた。洗面所に行って身を乗り出し、鏡に向かって大きく口を開けてみる。異常はない。でも念のためにうがいでもしておくかとコップに伸ばした手を、宙で止めた。
 何をやっているんだ、俺は。
 機械が風邪を引くわけない。ただのバグだ。プログラムの不具合だ。
 普段マスターがあんまりにも人間らしく扱ってくれるから、俺はときどき自分が人の形をした機械だということを忘れそうになってしまう。例えば髪を濡らしたままでいると、彼は小言を言いつつタオルとドライヤーを持ってくる。少しおとなしくしていれば、心配そうな顔で額に手を当ててくれる。

「機械なんだから熱なんか出ませんよ」

 俺が笑いながらこの台詞を吐くたびに、マスターが怒ることも悲しむことも知っている。けれど笑い飛ばさずにはいられないのだ。無理にでも笑っていないと泣き出してしまいそうだから。「俺も人間になりたいです」と叫んでしまいそうだから。
 唇を噛みしめた。裂けるほどに強く。こんなに痛くて苦しいのに、心だって人と何ひとつ変わらないはずなのに、どうして俺は機械なんだろう。マスターから与えられるものと俺がしてあげられること、ふたつを比べるとその差に愕然とする。自分の無力さにやりきれなくなる。俺はマスターをごく普通の幸せで包み込んであげることができない。どれほど強く歯を立てても、この唇から血が出ることもない。
 心ばかり人間に近づいて、知らず知らずのうちに期待が募って、ふとした瞬間に自分は機械だと再認識させられる。悔しい、と思うと同時にフローリングの床がぐにゃりと歪んだ。涙だけは必要以上に溢れてくるんだから困ったものだ。

「マスター」

 ふたりで使うには狭いベッドに寝転んで、枕に顔を埋めた。マスターの匂いが鼻を掠める。あとからあとから零れ落ちる涙をそのままに、俺はほんの少しのあいだ目を閉じた。

   *

「おかえりなさい!」
「おう。ただいま」

 マスターが帰ってくる前には気分が落ち着いたし、きちんと夕食の準備もできた。喉の痛みはなくなっていなかったけれど、いつもと変わりない声が出せると確認したのでマスターには黙っていることにした。

「マスター、今日のアイスは?」
「ん。ちょっと溶けてるかも。いったん冷やせば」
「はあい」

 ネクタイを緩める時のマスターは何度見てもかっこいい。毎日必ずどきどきする。ジャケットや鞄と一緒に小さなコンビニ袋を受け取ろうとしたら指が触れて、さらに心拍数が上がった。
 けれどマスターは何の未練もなさそうに俺から離れ、さっさとバスルームへと向かってしまった。少しさみしい。が、アイスが溶けるのもかなりショックなので、マスターの後ろ姿を目に焼き付けるのもそこそこに、コンビニ袋の中身を確認する。

「……あれ?」

 きのうはストロベリー、おとといはチョコミントだったから、今日は無難にバニラかなと思っていた。予想に違わず、今日のアイスはバニラ系だ。しかしパッケージを見た俺は仰天した。

「まっ、マスター間違えてますよ! これダッツのリッチミルクです!」

 バスルームに向かって声を張り上げると、「あー」というやる気のない返事が返ってきた。ハーゲンダッツは一曲完璧に仕上がった時にしか食べさせてもらえないことになっているのだけれど、どうやら間違って買ってしまったわけではないらしい。
 仕事で何かいいことでもあったのだろうか。だがそんな素振りでもなかった。一体どういうことだ?

「ん?」

 混乱しながらも、俺はアイスの下にもうひとつ菓子のようなものが入っていることに気がついた。袋から引っ張り出したそれのパッケージには、マスターから習ったばかりの平仮名が四文字プリントされている。

「……の、ど、あ、め」

 のど飴?

「マスタあああ!!!」
「わあっ!」

 俺は服を脱ぎかけていたマスターの背中に勢いよく飛びついた。

「マスターマスター、今日はどうしちゃったんですか? ダッツとかのど飴とか!」

 むりやり背中から引きはがされてしまったので、今度は両肩を掴んでマスターの顔を覗き込む。マスターはしらばっくれようとしたけれど、ぎゅうぎゅう抱きしめて「なんでなんで」と繰り返していたら顔を赤くしながら話してくれた。

「……だから、お前、なんかいつもと違ったから」
「なにがですか?」
「声だよ。自分でわかってねえのかよ。朝、声が変だっただろ。てか今も。だからのど飴。ダッツはついで」

 ぷいとそっぽを向いたマスターの横顔を、思わずまじまじと見つめた。
 この人は気づいてた?
 俺より早く、俺の異変に?
 ねえマスター、「感極まる」ってこういうこと?

「わっ、なに泣いてんだよカイト!」
「だ……だって、ますた、おれ、うれしいです」
「大げさなんだよお前は! 調子悪いんならそれ食ってさっさと寝ろ!」

 マスターの脱ぎたてのシャツで涙を拭われて、よけいにおかしな気分になった。縦も横も俺より小さいマスターを腕の中に閉じ込める。じたばたと暴れても本気で抵抗する気はないらしく、マスターは次第におとなしくなって俺の肩に頭を乗せてきた。遠慮がちな重みが途方もなく愛おしい。

「……なんか変なとこあったら隠さないで言えよ」
「はい。でも朝は自分でもわからなかったんです」
「鈍感」
「マスターは敏感ですよね」

 脛を蹴られた。こんな微かな痛みすら忘れたくない。

「これでマスターからキスしてくれたら治っちゃいそうだなあ」
「なんだよそれ」
「俺の一番の特効薬はマスターなので」

 真っ赤な顔で睨みつけられても怖くも何ともない。正直言って可愛いだけだ。その表情をずっと見ていたい気もするけれど、俺はにっこり笑って目を閉じた。長い長いためらいのあと、柔らかい唇が一瞬だけ触れていくことを知っているから。
 昼間ひとりぼっちでマスターを待つのは苦手でも、キスを待つこの時間はけっこう好きだ。じりじり、どきどき。苦くて甘くて、焦げたキャラメルみたいな。これ以上に贅沢な沈黙って、ちょっと想像がつかない。あとはコンサートで演奏が終わってから拍手が湧き起こるまでの静寂あたりだろうか。
 そんなことを取りとめもなく考えていると、ようやく顎の先に熱い吐息が触れた。
 不安も逡巡も罪悪感も背徳感もぜんぶ俺が飲み込んであげます。だから早くお薬ください、マスター。


end. (2009/7/24)
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