ラブレター

「別れてほしいの」

 走はぎくっとして、敷地内に踏み入れようとしていた足を引っこめた。とっさに生垣の影で身を隠す。
 庭でだれかが別れ話をしている。しかも「別れてほしい」と言ったのは女の声だった。どうやら走は、仲間の一人がフラれる瞬間に立ち会ってしまったようだ。
 どうしよう。もう少し走って時間を潰してこようか。走は踵を返しかけたが、好奇心を押さえられずに庭をこっそり覗き見た。
 竹青荘を背に立っているのは、困った表情の清瀬だった。
 夕食の準備をしている最中だったのだろう、エプロンを身につけ、おたままで持っている。真剣になにごとかを訴える彼女の様子と清瀬のいでたちがあまりにも噛み合わなくて、走はなんとなく溜め息をついた。竹青荘の窓からは、興味津々な視線がいくつも庭に降り注いでいる。ニコチャンと目が合ったので、軽く会釈をしておいた。

「電話もメールも返ってこないし。あたしの誕生日だって忘れてたでしょ」

 彼女の声にいよいよ涙が交じりはじめる。清瀬は華奢な肩に手を置こうとして、ようやく自分がおたまを握ったままだと気づいたらしい。持ち上げたおたまを見つめ、決まり悪そうにしている。ずっと覗いているわけにもいかなくて、走は名残惜しい気持ちで清瀬から視線を引きはがした。
 清瀬に彼女がいることは知っていた。ちょっと変わった人だけれど、見てくれはいいし優しいし家事も得意だし、陸上バカという点に目をつぶれば恋人として最高の男だろう。だが、箱根にかける清瀬の情熱は、目をつぶれる大きさのものではなかった。おそらく、そういうことだ。事情をなにも知らない走にも容易に想像がついた。

「……ハイジ、あたしのこと、ちょっとでも好きだった?」

 ちょうど音を立ててバイクが通り過ぎ、清瀬の声はかき消された。
 ざくざくと砂利を踏みしめてだれかが近づいてくる。十中八九、彼女だろう。走がここから離れるべきか否か迷っているうちに、生垣の間から女の子が飛びだしてきた。感情が昂った彼女はまわりを見ておらず、うろたえる走の胸にぶつかって止まった。ヒールの足元がふらふらとよろめいたが、すぐに体勢を立て直す。女は男よりもバランス感覚に優れているのだろうか。こんなに不安定な靴で歩いたり、時には走ったりするなんて、自分にはとても無理だと走は妙に感心した。
 彼女は「ごめんなさい」と言いかけたものの、声にならなかった。唇がわななき、目から大粒の涙がこぼれ落ちる。走は仰天して、とりあえず「すみません」と謝った。なにに対して謝罪しているのか不明だが、他にどんな言葉をかければいいのか見当もつかない。泣いている女の子は、走にとって許容範囲外の生き物だった。

「あの、ハイジさんを」
「呼ばないで」

 きっぱりと拒絶されて、走は立ちすくんだ。

「いいの。もう終わったんだから」

 彼女は走を押しのけて足早に去っていく。しばらくの間、走はその後ろ姿をぼんやり見つめていたが、はっと我に返って庭に駆けこんだ。清瀬は、走が大急ぎで現れるのを知っていたかのような表情で、さきほどと同じ場所に悠然と立っていた。

「おかえり、走」
「なにやってんですか。彼女、泣いてましたよ。早く追いかけないと」
「聞いてたんだろう? 別れたよ」

 走と清瀬が会話をはじめたとたん、竹青荘の住人たちはそそくさと窓際から離れた。あんたたち、気を遣う相手が違うんじゃないか、と思う。

「あの子とはゼミが同じでね」

 清瀬は唐突に切り出した。ありがたかった。いずれ住人全員が知る話になるだろうけれど、できれば尾びれ背びれがつくまえの真実を、清瀬の口から直接聞きたかったのだ。

「告白されて、付き合ってた。でも結局あれだな、あたしと陸上どっちが大事なの、だ」
「いつから?」
「夏」

 あの忙しい時期にちゃっかり恋愛していたとは。しかも一応フラれた身だというのに、清瀬に落ちこむ様子は微塵もない。むしろ晴れ晴れしているようにすら見える。

「……好きだったんですよね? ちゃんと」
「そりゃまあ、嫌いだったら付き合わない。いい子だったよ。でも俺には少なくとも10人、あの子よりも大事なひとがいるからね。それがわかってもらえなかった」
「10人?」

 メンバーは清瀬を除いて9人だ。走がそれを言うと、清瀬はおたまの先で母屋の縁側のあたりを指し示した。

「ニラだ」

 犬以下かよ。
 走は初めて、清瀬の元恋人に本格的な同情を覚えた。
 自分に注目が集まっていることがわかるのか、ニラが盛大に尻尾を振りながら近寄ってくる。走は条件反射のようにしゃがんで、その頭を撫でてやった。

「さて、中に入ろう。今日は夕飯が少し遅れるな。すまない」
「ハイジさん」

 走はじゃれつくニラの相手をしたまま、清瀬の名を呼んだ。清瀬は返事をしなかったが、ゆったりと振り返ったのがわかった。

「さっき大事なひとが10人って言ってましたけど」
「うん?」
「じゃあ俺は」

 ハイジさんのなかで何番目ですか。
 そう聞こうとしたが、なんだかとてつもなく恥ずかしくなってきて、最後まで言わずに口を閉じた。だってまるで、俺がハイジさんのことを好きみたいじゃないか。いや好きだけど、でもこれはそういうのとはたぶん違って、しかしどう違うのかはよくわからない。走は一人でぐるぐる悩んだ挙句、「なんでもないです」とだけ告げた。背を向けていてよかった。絶対、顔が赤い。

「心配しなくても、走はもちろん」
「いい! いい! 言わなくていいです!」
「どうして? きみから聞いてきたんじゃないか」
「最後まで言ってないし!」
「こう言おうとしたんだろう? 走は俺のなかで」
「あの! えっと……俺、夕飯ができるまで、もう一度走ってくるんで!」

 走は砂利を蹴って駆けだした。

「30分以内に帰ってこいよ」

 笑いを含んだ声が背中に飛んでくる。ハイジさんはずるい。走は心のうちで毒づいた。
 短距離走のような速さで何百メートルか疾走すると、心臓はすぐさま早鐘を打ちはじめ、呼吸が乱れた。ずるずるとスピードを緩めても高鳴る鼓動はおさまらない。吸っても吸っても息が苦しい。無様に喘いで、走は道路脇にうずくまった。頭のなかで、「走はもちろん」という清瀬の声が反響している。もちろん、なんなんだ。やっぱり聞いておけばよかった。
 悶々としながら呼吸を整える走の背中に、なにかが飛びかかってきた。びっくりして振り返ると、首から小さな巾着袋を提げたニラがちぎれんばかりに尻尾を振っていた。清瀬が差し向けたのだろう。巾着の中には小銭が数枚と、「マヨネーズ」と書かれた紙が入っている。

「あの人、俺をお使い係と勘違いしてるな」

 走はぼやきつつ立ち上がった。ニラが真っ黒な目で見つめてくる。早く走ろうと言っているかのようだ。
 商店街に向かってニラと共に走りだした走は、数メートルもいかないうちにまたしてもへなへなと座りこんだ。
 何気なく裏返したメモの裏には、「No.1」と書いてあったのだった。


end. (2009/11/23)
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