30分も早く待ち合わせ場所に着いたのに、先客がいた。
カフェが目と鼻の先にあるのだから店内に入ればいいものを、アリスは寒空のもとで人待ち顔をしている。透き通るような頬は半分マフラーで隠れているが、冷気で赤く染まっているのが見て取れた。髪に隠れた耳もほんのり色づいている。すぐ風邪を引くくせに何を考えてるんだ。
「アリス!」
俺の姿を認めると、アリスは眩しいくらいの笑顔で駆け寄ってくる。触れた指先が冷たい。
「おまえ、いつから待ってた?」
「えっと、20分くらい前やったかな」
「バカ。俺が時間通りに来るつもりだったらどうすんだ」
「来てくれたやん、30分も早く」
「たまたまだ」
「嘘つけ。これで予定通りやろ?」
悪戯っぽい笑みを向けられ、その愛らしさに俺は何も言えなくなった。
*
今日はアリスの新刊発売祝いと称して集まった。アリスは書店を見つけるたびに恐る恐る新刊コーナーを覗き、できたてほやほやの著書が積まれていることを確認して安堵の溜め息をつく。まるで百面相だ。あとについて歩いているだけなのに少しも飽きない。
純真無垢な子供のように、アリスは感情を素直に表現する。嬉しい時は周りに幸せが伝染するくらい喜ぶし、怒ると結構怖い。哀しければ涙を流して、楽しい時は声を上げて笑う。
きらきらと輝くアリスの感情のかけら。その隅にいつも自分が混じっていればいいのに、と思う。
「俺な、観たい映画があんねん」
「好きにしろよ。有栖川先生の祝いなんだから」
「ほんま?」
「ああ」
「今日は優しいんやなあ、火村先生」
俺は祝いじゃなくたってアリスの好きにさせているつもりだが、いちいち新鮮に喜ばれるからどんどん甘やかしてしまう。
隣を気にして、ひとりの時より少しだけゆっくり歩くようになってから何年たっただろう。俺たちは、互いがいなければ人生の彩度が落ちてしまうと思えるほどの、親友としては最上級の関係を築き上げてきた。
だが、これでは足りないと思う自分がいる。細くて頼りない身体を抱きしめたい。柔らかな髪に指を差し入れたい。想いは募り、心が軋んだ音を立てる。
*
「……観たいって言ったのはどこのどいつだ」
上映開始からものの数分で、アリスは船を漕ぎ出した。
「すまん火村、俺めっちゃ眠い……」
「疲れてるのか?」
「ん……ちょっと」
「バカアリス。肩貸してやるから2時間寝ろ」
左肩におずおずと重みがかかり、やがて安らかな寝息が聞こえてきた。目を覚ましたら内容を聞いてくるだろうから耳だけ映画に集中させ、アリスの寝顔を鑑賞する。
なめらかな頬。すっと通った鼻筋。長いまつ毛。小さな唇。どれをとっても愛くるしくてたまらない。一つひとつがこんなに可愛いのだから、これらが全部つまったアリスの顔が驚異的に可愛らしいのは当然だな、と妙に納得する。
我慢できなくなり、指先で頬に触れた。まつ毛がぴくりと震えたが、起きる気配はない。そのまま唇をなぞる。あまりに柔らかくて驚いた。この唇に触れた人間は俺以外に何人いるのだろう。自分で考えておきながら腹が立ってしまう。
ああ、せめてその瞼に口付けることを許してもらえないだろうか。
*
「アリス」
吐息で名前を呼ぶ。起こすつもりはない。呼ばずにはいられなかっただけだ。アリスへの愛しさがいっぱいになり、溢れかえって行き場を失っている。
こんなに近くにいるのに、心は決して触れ合えない。
*
「……ん」
「アリス?」
アリスは小さく身じろぎをした。さっきまで穏やかだった寝顔が苦しげなものに変わっている。悪い夢でも見ているのかもしれない。起こそうかどうか迷っていると、アリスの頬を一筋の涙が伝っていった。ひどく驚くと同時に、夢の中を覗いてみたいという欲求に駆られる。泣くほど辛い夢ってどんなだ? アリスの目の前に俺はいるのか?
華奢な肩を揺さぶって今すぐ問い質したかったが、俺は唇を噛みしめてシートに沈み込んだ。映画の内容はとっくにわからなくなっている。
これまでアリスは、幾人かの女性と付き合っては別れてきた。だが、アリスが誰を好きでも、誰を想って泣いても、俺にとってアリスが一番大切であることには変わりない。同じように、アリスにとっての俺が唯一無二の存在になれたらどんなにいいか。
こうして肩を貸せるだけでも幸せだということは承知している。それでも願ってしまうのだ。
「……ひむら、」
小さな唇から零れ落ちた言葉に、今度は俺のほうが泣きそうになった。
かけらでもいい。アリスが少しでも同じ想いを抱いてくれているのならば、俺はこの世に生まれてきた意味があると、そう思った。
end. (2009/3/24,7/24テキストページにアップ)
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【ふれあえない心臓】
1. あかく色付く君の耳たぶ
2. 満ちない心があまく軋む
3. 瞑ったままの瞳にキスを
4. いとしさは溢れ返るだけ
5. 誰を想って君が泣いても
お題配布元: 酸性キャンディーさま