マグカップ

 たぶん潮時なのだ。それがわかっていながら何も行動を起こせない自分が腹立たしかった。
 もう終わりにしよう。こうやって会うのはやめよう。連絡してこないで。陳腐な台詞はいくらでも思いつく。簡単なその一言を口にできないのが不思議なくらいだった。想像の中では百回も二百回も言った。ただ、ディーノを前にするとどうしても言えなかった。

「恭弥、悪い。コーヒー淹れてくんねーか」
「いいよ。豆は?」
「あればグアテマラ」
「ある」
「サンキュ」

 会いたかった。そう言って現れたくせに、ディーノは仕事に追われていてノートパソコンにかじりついたままだった。大方打ち合わせか何かが雲雀のマンションの近くで行われ、自宅まで帰るのが億劫になってビジネスホテル代わりにしただけだろう。それならそうと言ってくれれば協力もする。突然恋人に会いたくなって思わず押しかけてしまったふりなどしなければいい。一瞬喜んでしまったものだから、雲雀の気分は最悪だった。それでも「帰って」と言えない自分に呆れていた。
 丁寧に豆を挽く。グアテマラは昨日お気に入りの店で買ったばかりだった。いい香りがキッチンに広がって、少しだけほっとする。
 食器棚を開けてディーノのマグカップを手に取った。仕事をする時に使う一番シンプルなもの。ディーノはカップやグラスを集めるのが好きで、ここにもたくさんあって置き場所に困っていた。しかし捨てることはおろか片づけることすらできなかった。
 最初の頃はカップが増えていくのが嬉しかった。食器棚の扉を開いてそれらを見るたびに、大丈夫、と自分に言い聞かせていた。何が大丈夫なのかは、よくわからなかった。ただ祈るようにしてディーノのカップを見つめていた。使っていなくてもときどき洗った。
 最後に洗ったのはいつだろう。雲雀ははっきり思い出せなかった。いま手に取った白いマグカップは、食器棚にしまっておいたにもかかわらず埃っぽかった。

「コーヒー」

 広い背中に声をかける。

「入ったよ」
「おー、ありがとな。恭弥が淹れてくれたのが一番好きだ」

 ディーノはようやくパソコンから顔を上げた。長い手足を伸ばしてこちらに向き直る。

「忙しいの?」
「だいぶな。でも来月になればちょっとはマシになるかなあ」

 向かい合っていたけれど、ディーノの目は雲雀を見ていなかった。目と目は合っていても、心はそこになかった。

「久しぶりだね。うちに来るの」
「そうだな。下手したら1年ぶり以上か」
「かもね。僕も覚えてない」

 ディーノは黙ってコーヒーを飲んだ。雲雀はマグカップのふちを何度も指で撫でた。

「ねえ」
「ん?」
「泊まっていくの?」
「や、仮眠だけさせてもらっていいか」
「いいけど、」

 もう二度と来ないで。口の先まで出かかったものの、言葉にはならなかった。
 たぶん潮時なのだ。愛情はもうない。それなのに顔を見るとやっぱり愛しいと思ってしまうのはなぜだろう。2杯目のコーヒーを淹れたあと、雲雀はディーノの隣に座らずにはいられなかったし、ディーノは雲雀を抱き締めることしかできなかった。
 結局ディーノは明け方まで雲雀の部屋にいて、書き置きを残して帰っていった。「また来る」と書かれた手紙をぼんやりと見つめる。愛情と性欲をはき違えているのか。ただの情なのか。もうどちらでもよかった。どちらでも同じことだった。
 水を飲みにのろのろとキッチンに向かうと、昨日使ったマグカップがダイニングテーブルの上に置かれていた。2杯目にはほとんど口をつけなかった。それをシンクに流してカップを洗いながら、雲雀は声を押し殺して泣いた。


end. (2015/2/22)
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