Baciami ancora
ディーノの誕生日が2月だと知った者は、みな一様に意外そうな顔をする。かくいう僕も、彼は夏生まれだとわけもなく信じていた。だから底冷えのする夜、あたたかいベッドの中で「あさってパーティーなんだ」と言われても、何の祝い事なのか僕にはさっぱり検討がつかなかった。ディーノはもったいぶるように口の端を持ち上げながら僕を抱き寄せ、耳元で「おれのたんじょうび」と囁いた。
教えられた途端に、2月4日という日付が心にすうっと浸透していくのを感じた。それまでディーノの生まれた日など考えたこともなかったのに、知らずにいたのが不思議になるほど、その日は一瞬にして僕の特別になってしまった。きっともう死ぬまでずっと、2月4日を迎えるたびに僕はディーノを思い出す。どんなに年を取っても、遠く離れ離れになったとしても、必ず思い出すに決まっている。目の前で笑う男は、たったいま自分が人の未来をあっさりと貫き、奪ってしまったことに気づいているのだろうか。
むずがゆくなるほど甘い視線を注いでくるディーノを、恨みがましさたっぷりに睨み返してみる。すると頬をやさしくつねられ、文句を言う前に唇をふさがれた。せめてもの抵抗として歯を食いしばっていると、唇がやわらかな弧を描き、あいしてる、音もなくそう動いた。
あれから7年。ディーノは29歳になった。
今日はディーノに誕生日プレゼントをあげることになっている。とはいっても、物を渡すわけではない。僕の「今日」を丸ごとディーノにあげるのだ。
相手の誕生日の前後2ヶ月のうち、いつでもいいから丸一日をオフにする。毎年恒例になりつつあるこの祝い方を、僕はとても気に入っている。こうやって工夫しなければ24時間一緒にいることなんて不可能だし、プレゼント選びに悩む時間があるくらいなら少しでも会いたいと思っていたので、ディーノから提案されたときは二つ返事で了承した。
結局、相手を祝う日だけでなく自分が祝われる日も空けておく必要があるのだが、そのためのスケジュール調整なら楽しみですらある。まだディーノには遠く及ばないものの、ここ1年ほどで僕もだいぶ忙しくなった。誕生日の前後2ヶ月という期限が守れないかもしれないと焦ったのは今回が初めてだった。
独特のエンジン音と軽いクラクションが聞こえてきて、ディーノが到着したことを知る。カーテンをつまんで外の様子を窺うと、いつもの赤いフェラーリがエントランス前に横付けされていた。フロントガラス越しにディーノの姿が見える。表情までは読み取れないけれど、僕の部屋のほうを見上げているのがはっきりとわかった。約束の時間まであと15分はあるというのに、ずいぶん気が早い。
はやる気持ちを抑えられないのは僕も同じだった。身支度はとっくに済ませてあったから、さっさと部屋を出てエレベーターに飛び乗る。祝いの言葉を考えていなかったことに気づいたが、僕を乗せた箱はあっという間に地上に到着してしまった。少し焦りすぎかもしれない。やばい。相当舞い上がってる。自動ドアの動きがいつもよりゆっくりに感じてもどかしい。
「恭弥!」
ああ、とため息をもらした。ディーノだ。
ディーノは大股で僕に近づき、歩道の真ん中でハグをした。頬にキスをされる。努力して唇は避けたようだ。してもいいのに、と思う僕はやっぱり浮かれている。
「恭弥、久しぶりだな。元気だったか?」
「見ての通り元気だよ。……ていうか何これ?」
助手席に乗り込もうとする僕を阻んだのは、大きな薔薇の花束だった。
「つい張り切っちまった」
「今日はあなたの誕生祝いでしょ?」
「いいんだよ。俺がしたいんだから」
「座れないじゃない。後ろに置くよ」
つれねえなあ、と言いながらも、ディーノの頬はゆるみっぱなしだ。たぶん僕の顔が赤くなっているのだろう。こんなのずるい。ディーノはもともと古典的でわかりやすい愛情表現が多いけれど、こうも直球で来られると恥ずかしい。喜びを隠しきれない自分はもっと恥ずかしい。
おかげで「誕生日おめでとう」を言うタイミングを逃してしまった。このままうやむやにしてしまおうか。いや、駄目だ。今日はそれを言うために会っているのだから。僕は覚悟を決めた。
「ディーノ」
「ん? 寒くないか? 少し走るぞ」
「寒くはない。……あの」
「どした」
信号が赤になる。ディーノはにこにこしながら僕の顔を覗き込んだ。歩行者をちらっと見てから一瞬だけ唇を触れ合わせる。彼は信号待ちの時間にキスをするのが好きなのだ。
「だから」
「なんだよ」
改めて言おうとすると照れ臭くて言葉が出てこない。
「その……Buon compleanno,Dino」
ディーノは目をぱちくりさせたあと、声を出して笑った。信号が変わっても動き出さないから、後ろの車に小さくクラクションを鳴らされる。
「Grazie,Kyoya! 最高の誕生日プレゼントだ」
アクセルを踏み込む前、僕らはもう一度キスをした。薔薇の匂いに酔いそうだと思いながら目を閉じる。
初めて会った頃、僕はひどく幼くて、ディーノもかなり若かった。けれど中学生の僕から見たディーノは信じられないくらい大人びていて、頼もしくて、魅力的だった。あっけないほど簡単に恋に落ちた。あの頃はディーノの考えていることなど想像もつかなかったし、自分が同じ年齢になってもディーノのようになれるとは到底思えなかった。
「来月は恭弥の誕生日だな。また恭弥と1日デートできる」
「ねえ、僕がいくつになるかわかる?」
「当然。22だろ」
「そう。この年齢、何か心当たりない?」
「俺が恭弥を好きになった年」
ディーノは平然と言ってのけた。
「恭弥が俺を好きになった年。初めてキスした年。それから」
「もういいよ」
「恭弥を一生愛すると誓った年」
一生、なんてよく言えたものだ。とてもじゃないが、中学生の僕にはその言葉を信じきることができなかった。怖かった。当たり前だ。しかし今、ディーノは僕の隣にいる。あの頃と変わらない目をして僕を見つめている。
「……7年前、僕にはあなたが遠かった。早く年を取りたかった」
「22なんてまだまだガキだったよ」
「そうだね。今ならわかる。ついでに29のあなたもまだまだやんちゃだと思う」
「少しは落ち着いただろ!」
「少しね」
むきになるディーノが愛おしくて僕は笑った。
出会ったばかりのディーノが見ていた世界は、どんな色なんだろうか。次のデートはそれを確かめにいこう。久しぶりに日本へ帰るのもいい。並盛中の屋上からもう一度青空を見上げてみたい。
二人でやりたいこと、見たいもの、行きたい場所、挙げればきりがない。一緒でなければ意味がない。そう思える存在に出会えたことがとてつもない奇跡に感じられて、胸がいっぱいになる。それと同時に、背負った十字架の大きさに足がすくむ。ディーノの年齢に追いつく日など来ないでほしい。追い越す日など迎えたくない。
それを伝えようか迷ってやめた。代わりに次の信号待ちでは僕からキスをした。
end. (2014/5/27)
(Baciami ancora=もう一度キスを)
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