lair?


 今ここで泣くのは恥ずべきことだろうか。
 結論が出ないうちに、涙が溢れて頬を伝う。僕はこんなにも素直に感情表現ができたのかと、妙に驚いた。もっと早くこうして泣いていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。そう思うと蛇口をひねったみたいに涙が止まらなくなって、隣の運転席に座るディーノが焦るのがわかった。

「恭弥」

 情けない声と共にハンカチを差し出されたけれど、受け取らずに手の甲で涙をぬぐった。
 深夜零時、外は雨が降っている。頼りない街灯の下に停められた車の中で、僕たちはいわゆる「別れ話」をしていた。とはいえ、僕は一言も発していない。終りにしようと告げたのはディーノのほうだ。そのわりにやけに沈痛な面持ちをしていて、こっちが悪いことをしたような気分になってくる。

「……なんて顔してるの」
「おまえこそ。泣くなんて思わなかった」
「僕もだよ」

 喧嘩が原因ではない(というより、僕らは喧嘩するのが普通だ)。浮気をしたわけでも(もちろん、されたわけでも)ない。性格の不一致なんて今さらだし、倦怠期なんてものが訪れるほど型にはまった恋愛じゃない。ただ、繰り返される小さなすれ違いが積み重なって、ディーノの心は僕の手の届かぬところにいってしまった。ディーノも同じだ。きっと彼は、なぜ僕が泣いているのか理解できないだろう。
 そもそも恋愛に理由など必要ないのだ。なんの理由もなく始まった恋ならば、同じように理由もなく終わればいい。終焉に意味を持たせても虚しいだけだ。
 人は何にでも名前や意味を付けたがるけれど、そうして得るのは薄っぺらい安心感にすぎない。僕はそんなものに頼るほど弱くはないつもりだ。涙が止まったら、車を降りて家に帰ろう。シャワーを浴びて、温かいベッドにもぐりこんで、携帯の電源を落として眠ってしまおう。

「恭弥」

 もう一度呼ばれた。ディーノは体ごと助手席のほうを向いている。僕は顔を動かさないまま、雨がフロントガラスを叩く様子を見つめる。雨粒は大きく、真珠が散りばめられたカーテンの中にいるようだ。

「まだ俺が好きか?」

 僕は嫌いな人間とは一秒だって一緒にいたくない。知ってるくせに。
 ディーノのことは、好きだ。人として、男として、統率者として、殺し屋として、いろんな方面からディーノを追いかけてきた。恋人にするには問題な部分も多いけれど、たぶん、ディーノ以上の相手なんてもう現れない。好きだった。愛してた。おそらく、愛しすぎてしまった。

「好きじゃない」
「それなら、なんで泣いてるんだよ」
「長い付き合いの最後くらい、いいでしょ。二人して通夜みたいな顔するよりマシだと思うけど」
「俺、そんな顔してるか?」
「してる」

 ディーノは困った表情になり、それから無理に笑ってみせた。ぎこちない笑みが、つらい。以前はこんな顔しなかった。やはりもう手遅れなのだ。僕たちの関係は修復できないところまで来てしまった。
 自分が素直に物を言えない人間だということはわかっている。けれど、どうして一言「僕も好きだよ」と言わなかったのだろう。ディーノのくれた気持ちの半分も、僕は返すことができなかった。あの時も、その前も、手を繋いだまま帰ればよかった。メールの返事だって毎回ちゃんと返せばよかった。読んでないわけじゃない。僕は不器用だから、言葉を選ぶのに時間がかかってしまうんだ。大事なことほど喉の奥に引っかかり、声になってくれない。ディーノはいつも「わかってる」と言ってくれたけれど。

「そろそろ帰るか」
「うん」

 ドアを開けようとすると、慌てて引き止められた。マンションまで送ると言い張って聞かない。仕方がないから再び座席に背中を預け、シートベルトをした。遠く前方を走る車のテールランプが雨と涙に滲む。

「……ディーノ」

 まだ好きだよ、という呟きは、雨音にかき消された。

「悪い、聞こえなかった。もっかい言って」
「いいよ、別に。たいしたことじゃない」
「なんだよ。気になるだろ」
「当ててみなよ」

 ディーノは真剣に悩み始めた。口に出したことはないけれど、車を運転しているときのディーノの横顔は、いつもより少しだけ格好よく見えると思っている。目に焼き付けるようにして、一心に見つめた。

「うーん、ほんとはまだ好き、なんてな」
「……はずれ」

 end. (2008/10/17)

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