恋は罪悪


 ディーノが明日、結婚する。

 それは出会ってから今日までの間に何百回も何千回も想像し続けてきたことであって、いよいよ現実になろうとしても雲雀の心は驚くほど静かだった。同盟の関係で、あるボスの一人娘と婚約が決まった時も、泣いて縋ったのはディーノの方だ。結婚した後も会いたい、恭弥とは離れられない、と。
 しかし雲雀は受け入れなかった。この恋が大切だからこそ、捻じ曲がった状態で関係を続けることが我慢ならなかったのだ。雲雀の気質を本人以上に知り尽くしているディーノは、多くを語らずともすべてを理解した。雲雀の分まで泣いて泣いて、掠れた声で愛してると繰り返した。
 二人で過ごした最後の夜は一年近くも前だというのに、ディーノのネクタイの柄や飲んだワインの銘柄まで覚えている。雲雀は自嘲の笑いを漏らし、最近吸い始めた煙草に手を伸ばした。

 きっと最初で最後の恋。全身全霊をかけて愛し、愛された。忘れられるわけがないじゃないか。

 唐突に涙があふれそうになり、雲雀は慌てて目をこすった。紫煙を深く吸い込んで気持ちを落ち着かせる。頭では納得しているつもりでも、心は事実を受け止めきれないでいるのだ。ひっきりなしに軋んで悲鳴を上げるこの心は、いつまでもつのだろう。そのうち壊れてしまうんじゃないか。そんなことを考えていると、不意に胸ポケットに入れてある携帯が震えた。
 取り出して画面を見た瞬間、口から煙草が落ちた。ベッドのシーツを転がって絨毯を焦がしていく様子が目の端に映るけれど、構っていられない。その番号は別れの夜に消去したディーノのものだった。最後の一桁まで暗記しているから間違いない。
 なんで、どうして、こんな夜に。ためらったのはほんの一瞬で、雲雀はすぐさま携帯を耳に押し当てた。この電話の向こうにディーノがいる、ディーノが自分を待っていると思ったら、出ないなどという選択肢は思いつきもしなかった。

「――はい」

 人の気配はあるものの、向こうからは何も言ってこない。まさか事件に巻き込まれでもして喋れない状況なのかと青くなっていると、小さな声で「恭弥」と呼びかけてきた。ディーノだ。雲雀のことを恭弥と呼ぶのはこの世にたった一人しかいないから、すぐにわかる。

「どうしたの」

 いろんな想いを押し殺して、言葉少なに話しかけた。けれど息遣いが伝わってくるだけで、ディーノは口を開こうとしない。

「何かあったの?」
『……』
「ねえ、聞こえてる? 用がないなら、」
『切んな、恭弥……っ』

 荒い息と、震えた声。雲雀はようやく異変に気づいた。

「ディーノ、大丈夫? 怪我してるの?」
『し……してない』
「今どこにいるの。教えて」
『海に……彼女が夜の海を見たいって言ったから』

 彼女、という単語にひどく傷つく自分がいたが、雲雀は構わず先を促した。

『助手席に彼女乗せて、でもそこは恭弥がいるはずの場所で、なんでこんなことになったんだろうって思ったらもう俺わけわかんなくなって、それでっ、』

 続く言葉を予想するのは至極たやすいことだった。その事実に行き着いたとたん、眩暈がするほどの優越感と奇妙な幸福に襲われる。

 ――ああ僕は同罪だ。いや、地獄に堕ちるのは自分ひとりでいい。

「……ディーノ。僕がやったことにしよう」
『駄目だ! 絶対殺される……っ』
「それはあなただって同じでしょう? どうせ死ぬなら僕の方がいい。ボスの元愛人が嫉妬に狂って婚約者を殺したことにすれば、被害は最小限ですむ」
『そんな……恭弥、二人で逃げよう』
「だめだよ。すぐに捕まる」
『じゃあ別に犯人を用意するからっ』
「その状況じゃ誤魔化せない」

 一瞬の間のあと、ディーノは嗚咽を漏らした。

『なんで……っ、俺、恭弥が好きで、ずっと一緒にいたくて、ただそれだけなのに、なんでだよ……! 俺なんか間違ってるか? なあ恭弥っ』

 雲雀は車のキーを持って立ち上がった。錯乱するディーノをなだめながら居場所を聞き出し、夜の海岸線を飛ばす。赤いフェラーリは思ったよりもすぐに見つかった。その傍らに、子供のように膝を抱えて地面に腰を下ろしたディーノがいる。
 助手席に視線を走らせると動かなくなった女性のシルエットが目に入り、雲雀は顔を背けた。何の罪もなく殺されたというのに、可哀想だとか申し訳ないとかいう気持ちが少しも湧いてこない自分は、人として大事な部分が欠落しているのだろうか。
 正直、心の奥底では当然の報いだとすら思っている気がする。なにせディーノを苦しめたのだ。罪のない人間を手にかけずにはいられなくなるほど、ディーノを追いつめたのだ。仕方ないだろう?

「乗りなよ」

 潮風になびく金色の髪を見下ろして、その靴先を軽くつつく。一刻も早くディーノをここから遠ざけねばならない。朝が来るまで、あと数時間しかないのだ。
 立ち上がらせたディーノを自分の車の助手席に押し込め、雲雀は運転席に戻ったが、行くところなど何処にもないと気がついた。途方に暮れて、血のように赤いフェラーリを見るともなしに眺める。中学生の頃に乗せてもらっていたのとは違うものだけれど、ひどく懐かしい。
 ハンドルを握ったまま動かないでいると、ディーノの手が伸びてきた。両頬を包まれて引き寄せられ、そのまま唇が重なる。吐息と舌が以前よりもかなり煙草臭くなっていることに驚いて胸を押し返したら、ディーノは「おまえもな」と言った。

「彼女、煙草がすっげえ嫌いだったんだ」
「だからわざと吸うようにしたの?」
「それもある。恭弥は」
「口さびしかったから」

 そう言うやいなや、雲雀はディーノの膝へと強引に移動させられた。幼子が人形にするように抱きすくめられ、身動きが取れない。

「ねえ、くるしい」
「ごめん。もう離したくない。やだって言われても離せない」
「……ディーノ、」
「恭弥と一緒なら死んでもいい」

 たとえば雲雀かディーノのどちらかが女だったら、所属するファミリーが同じだったら、マフィアでなかったら、出会わなかったら。例え話なんていくら考えても意味がないのに、想像せずにはいられなかった。
 けれど、と雲雀は思う。けれど、もし過去に戻ってやり直すことができたとしても、あるいは他の人生を選べる状況に置かれたとしても、自分は今と同じ道を歩もうとするだろう、と。
 出会ってすぐに恋に堕ちて、数え切れない喧嘩と仲直りを繰り返し、逢えない夜を何度も何度も乗り越え、どんなに歓迎されなくともこの愛を貫き通した互いの人生が、狂おしいほど大切だった。誰にも汚されたくなかった。自分たち以外の手で終わりにされるなんて、どうしても許せなかった。

「好きだよ、恭弥」

 キスの合間に告げられる愛の文句が懐かしくて愛しくて、雲雀は必死でディーノにしがみついた。ずっと見つめ合っていたい、瞬きの間すらもったいないと思うのに、意思とは関係なくあふれる涙が邪魔をする。声を上げて泣くのなんて何年ぶりだろうか。

「ディ……ノっ、」
「うん」
「好き、だった。僕には、あなただけだった」
「知ってる。愛してるから」

 次第に白んでゆく空と、光に包まれる海が、とてつもなく美しい。
 まるで天国みたいだと、雲雀はディーノの耳元で囁いた。

 end. (2008/5/1)

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