fiore


 並盛の桜が満開になった日、まるでそのタイミングを見計らったかのように、ディーノは日本を訪れた。
 いつものように桜並木を行き過ぎようとすると「今日は歩きたい」と言い出し、反対する僕の言葉には耳も貸さず車を停めさせた。運転していた部下がバックミラーごしに謝ってくる。

「恭弥、早く来いよ。すげえ綺麗だぞ」
「ねえ。ここからホテルまで何分かかると思ってるの」

 走り去る車を横目で見ながら、嫌味を言う。

「いいじゃねーか、一年に一度くらい」

 咲き乱れる桜にも引けを取らない笑顔を向けられて、口から出かかっていた非難の言葉は自然と引っ込んだ。花見をするよりディーノの顔を眺めていたいと思ったけれど、そんなこと天地がひっくり返ったって言えるはずがない。桜に見とれるふりをするので精一杯だ。

「ちょっと、」
「誰も見てねーよ」

 嫌がる僕の手を握り、ディーノはのんびりと歩き始めた。数週間ぶりに触れ合った手と手を妙に意識してしまって、何も言えなくなる。

「これって満開? まだ咲くのか?」
「満開って言ってた」
「へえ、誰が?」
「誰って……ニュースキャスターだよ」

 首をかしげたディーノに、日本のニュースでは桜前線や開花状況も知らせてくれると教えると、とても感心した様子だった。四季感が素晴らしい、人と自然の関わり合いが魅力的だとしきりに褒めている。

「恭弥の育った国が日本で嬉しい」
「何それ。大げさだね」
「んなことねえよ。こんなにいい環境に生まれて、恭弥は幸せだ」

 ディーノは足を止めて、空いている方の手で僕の頬を優しく撫でた。早くも枝を離れたひとひらの花弁が金髪にくっついていたから、僕はそれを払ってやる。ひらりひらりと宙を舞う花びらは、僕らの視線を繋ぎ合わせたあと、肌寒い春風にさらわれていった。
 瞬きもせずに見つめ合っていると、ここが真っ昼間の道端だということを忘れそうになってしまう。だから徒歩でホテルに向かうのなんて嫌だと言ったんだ。苦労して顔を背けたのに、ディーノは熱っぽい目で僕の視線を追いかけてきた。

「恭弥」

 鳶色の瞳にまっすぐ射抜かれる。ディーノはいつだって逃がしてはくれない。わかっているけれど、形だけでも抵抗しないと怖かった。惜しみなく注がれる愛情とこの身からあふれる想いに呑み込まれ、幸せなのにひどく臆病になってしまう。
 そんな僕の不安を知ってか知らずか、ディーノは囁きかけるような声で穏やかに言葉を続けた。

「俺さ、日本が好きだよ。恭弥が育ってきた国だと思うとすげえ愛しくなる。母国が増えたみたいな気分だ」
「ずいぶんお手軽な愛国心だね」
「ははっ、そうだな。恭弥に関わる全部が大事でたまんねえ」

 愛しい、愛しい、愛しい。
 心の底から、途方もなく、声を上げて泣き出したいほど、目の前の男が愛おしい。
 ああもう、こんなのって。

「……どうかしてる」
「かもな」

 気づいた時には唇を重ね合わせていた。思わず喘ぐようにして口を開くと、ディーノはすぐさま熱い舌を差し入れてきた。僕の後頭部を支えて思うさま粘膜を愛撫し、唇を甘く食んでくる。

「ん……ふっ、あ、やだ……っ」

 さすがにまずい。焦って抵抗を試みたけれど、逆に強い力で抱き込まれてしまった。背中に木の幹のごつごつとした感触を感じながら、あふれ出しそうな二人分の唾液を飲み下す。

「待っ、ディ……ん、ぅ、」
「キスだけ」
「嘘つけ……っ」

 言葉とは裏腹に、ディーノの指は確かな目的を持って動き回っている。胸元を何度もさすり、その中心を服の上から摘んでくるものだから、僕は呻くような声を漏らさずにはいられなかった。
 キスを繰り返すたび、目配せを交わし合うたびに、愛が生まれていく。これ以上は本当に後戻りができなくなると握りこぶしに力を入れた時、ディーノはようやく唇を離した。まるで今生の別れを迎えたみたいな顔をしている。

「……歩きにするんじゃなかった」

 乱れる息も整わないうちに、未練たっぷりの声で呟いた。

「そうだね。あなた、自分を知った方がいいよ」
「だけど俺もう、どんくらい恭弥のこと好きなのかわかんねえよ」

 僕なんて、いつからあなたを好きなのかすら覚えてない。あなたに恋をすることは僕にとってそれほど自然だった、必然だった、当然だった。
 そう言ってやろうかとも思ったけれど、今はまだいい。名残惜しそうに僕の髪をいじくる手を引っ掴み、先に立って歩き出した。

「ディーノ」
「ん?」
「イタリアにも、桜はあるの」
「あるよ。でも日本のには敵わねえな」
「……そう」
「見たいか?」

 すぐに返事をするのがためらわれて数秒後に頷くと、半歩後ろにいるディーノが小さく笑うのがわかった。
 本当は場所なんてどこだっていい。日本でもイタリアでもアメリカでもアフリカでもいい。重要なのは隣にディーノがいることだ。僕がいてディーノがいてそこに花が咲いていたら、ほら、こんなにも幸せなのだ。
 震えるほどの歓喜に満たされて振り返ると、ディーノはたまらないといった様子で僕を抱きしめた。遠くで車のエンジン音が聞こえる。でもあと五秒だけ、いや三秒でもいい、離れたくない。
 時間よ止まれ。こんな文句を心の中で叫ぶ日が来るなんて、僕は思ってもみなかった。

 end. (2008/4/20)

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