「愛してる」と「別れよう」を同時に言われてから、十年がたった。あの恋がすべてだった頃は、ディーノのいない未来なんて生きていけないと思っていたけれど、人間は意外と図太くできているらしい。僕はわりとすぐ一人の生活に慣れた。
イタリアに渡って沢田綱吉の下で働くようなってからは、他人と一緒に仕事をこなせるようにもなった。ディーノではない人間と笑い合ったり、喧嘩したり。その中の幾人かとは、恋もした。しようとした、の間違いかもしれない。特別すぎるディーノの記憶を、他の誰かとの想い出で塗りつぶしてしまえば、僕は楽になれると思ったのだ。
一番最近まで付き合っていたのは僕より少し小柄な女性で、ディーノと同じ髪の色をしていた。その前の男とは半年でだめになったのに、彼女は根気強いもので、二年近くも傍にいてくれた。そんな彼女のことを、僕は僕なりの誠意を持って愛しているつもりだった。「あなたは私の向こうに誰を見ているの?」と言われるまでは。
「忘れよう」と思うことはずっと考えてるのと同じことで、つまり僕は十年間ディーノを想い続けていたようだ。忘れたふりをしていても、自分は騙せない。ふとした瞬間にディーノの声や仕草が蘇って、押し殺した愛が溢れ出しそうになる。今だってこんなにも、胸が苦しい。
もちろん、十年間ずっと接触がなかったわけではない。会合やら何やらで、顔を見る程度の機会なら何度もあった。でもそれは何日も何週間も前から平静を保てるように心の準備をしていた場合で、今日のような再会は初めてだ。もはや偶然というより奇跡に近い。
だってまさか、この広い世界で、同じ国の、同じホテルの、同じエレベーターに乗り合わせるなんて。
「恭弥? 恭弥じゃねえか」
最初に気づいたのは、眼鏡で黒服を着たディーノの部下だった。あとから乗り込んだ僕を見て仰天している。僕はその何倍も驚いて、思考が停止して、膝が震えて、声も出ない。
きっと人垣の中心には、夢にまで見たディーノが。
「恭弥!」
何人かの部下をかき分けて現れたディーノは、最後の記憶よりほんの少し痩せていた。僕の心臓が爆発しそうだなんて思いもよらないんだろう、無遠慮に近づいてきて肩に触れる。
「すげえ偶然だな。元気か? 仕事で来てるんだろ、部下はどうしたんだよ。一人歩きは危ねえぞ」
「……これ、届けるだけだから。部下なんていらないよ」
書類をかざしてみせると、ディーノは十年前と同じ顔で笑った。
「恭弥らしいな。変わってねえ」
総ガラスでできた展望エレベーターと夜景が自慢のこのホテル、でも僕の目にはディーノしか映らない。世界中の人が感嘆の溜め息をもらす夜景よりも、ディーノの瞳の輝きの方が、流れるような金髪の方が、僕にはずっと美しい。
突然すぎる再会の感動を伝える暇もなく、エレベーターはポーンという電子音を立てて停止した。階数パネルは28階を示している。
「ボス」
「お、もう着いちまったのか。恭弥はどこで降りるんだ?」
「僕は一番上まで行く」
「そっか」
「うん」
「じゃ、またな」
部下が促すのに従って、ディーノは颯爽とエレベーターを降りていった。振り返りはしない。僕はドアが勝手に閉まるのを待ち、ぼんやりと立ち尽くす。
光の射す方へ歩を進めるディーノと、仄暗い箱の中に取り残される僕。やはり同じ道を歩むことはできないのだと思い知らされて、見つめる背中が涙で歪んでいった。
十年たっても何も変わらない。僕はいつだって、ディーノの後姿を眺めて途方に暮れている。
「……ディーノ、」
堪え切れずに名前を呼ぶと、ディーノは弾かれたように踵を返した。部下の制止も振り切って、駆け込み乗車さながらの必死の表情で、閉まりかけるドアをこじ開けて――驚愕する僕を力いっぱい抱きしめた。
「きょうや、っ」
突き飛ばすことも、背に腕を回すこともできない。どちらの行動が正しいのかも分からない。ただ小指の先までディーノへの愛でいっぱいになって、好きという感情に全身が支配されて、ひどく不自由なのに幸せを感じた。
僕の十分の一、百分の一でもいい。この十年間、ディーノは僕のことを考えてくれただろうか。僕を想って他の誰かを抱いたりしたんだろうか。聞きたいことは山ほどあるのに、愛しさの波が洪水のように襲ってきて言葉にならない。ねえ、だって僕ら、嫌いになって別れたんじゃないでしょう?
確かめたくて上を向くと、以前よりも近くにディーノの顔があった。少し縮まった身長差が切ないけれど嬉しい。変わらない香水の匂いが、頬をくすぐる髪の感触が懐かしい。
たった一度の抱擁が、十年分の空白を埋めていくのを感じた。その空白でさえ、愛しいと思えた。
「恭弥、ごめん。ごめんな……」
男同士なんて不毛な関係に巻き込んでごめん。血塗られた闇の世界に引きずり込んでごめん。こんなに好きになって、ごめん。たくさんの想いがこもった謝罪は僕の心を震わせたけれど、いま聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。
「……愛してるは、もう言ってくれないの」
最上階に着いたあと停止したままのエレベーターの向こう側が、にわかに騒がしくなった。団体客でも乗り込んでくるのかもしれない。
ドアが数センチ開いたと思った瞬間、ディーノは叩きつけるように操作パネルのボタンを押した。僕ら二人を乗せた箱が、暗い闇の中へ滑り堕ちていく。噛みつくようなキスに目を閉じた。
行き先はどこだか分からない。僕にも、たぶんディーノにも。
end.
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