雨は嫌いじゃない。降りしきる雨音で、周囲の雑音がかき消されるからだ。

   傘を持っておらず、ずぶ濡れで応接室を訪ねてきた男にそう言ってみると、「そうかあ?」というやや批判的な返事が返ってきた。タオルを渡そうとしていた手を引っ込め、僕は眉を寄せる。
 そもそも今日は、ディーノが訪れてきた瞬間から気分がすぐれないのだ。学校の応接室という厳格な場所と、しとどに濡れた派手な外国人。いつも以上にアンバランスで、そわそわして落ち着かない。ここは僕の領域だというのに。

「なに? 文句があるならこれ貸さないよ。濡れたままでいれば」
「あー違う違う! そうじゃねーよ。恭弥が言う通り、周囲の雑音が消されるってのはあると思う。でも俺はむしろ、そのことによって生み出される状況の方が魅力的だと考えるわけだ」

 どうせまた、ろくでもないことを言い出すんだろう。会話を終わらせるのも面倒だったから、視線だけで話を促してやった。それを合図に、鳶色をした瞳が悪戯っぽく細められる。いつも余裕たっぷりの男が見せる、少年のような笑み。

「だってさ、なんか世界で二人だけになったみたいな気がするだろ?」

 馬鹿じゃないのと罵ってやりたいのに、髪をかき上げるディーノの仕草がとてつもなく色っぽくて声が出なかった。さっきまでの子供っぽい顔はどこへいったんだろう。少年と男が混在するディーノの行動は、いつも僕を惑わせる。
 一度タイミングを逃してしまうと、もう何を言えばいいのか分からなかった。それなのに目は奪われたまま。不自然だと自覚しながら、自分を惹きつけてやまない眼前の男を見上げ続けた。

「今日もそうだよな。この部屋だけ、外界から遮断されてる感じがする」

 濡れそぼったTシャツが張りついて、上半身のラインが露わになったディーノ。骨格も筋肉も、どこもかしこも計算されつくしたように完璧で、この人は神に愛されて生まれてきた人間なんじゃないかと思ってしまう。

「いま学校にいるの、俺と恭弥だけみてえ」
「……そう、だね」

 相槌を打つものの、僕はディーノの逞しい首から目が離せなかった。金色の髪から流れ落ちた雨粒が喉仏を辿り、鎖骨を越え、そして胸元に。
 思わず生唾を飲み込んだ。あの雫を舐めたら甘いかもしれない、だって蜂蜜みたいな色の髪をしてるじゃないか。

「どーこ見てんだ? 恭弥」

 はっと我に返った。ディーノが体をかがめ、にやにやと笑いながら顔を覗き込んでいる。まずいと思って背を向けようとしても、もうとっくに手遅れだった。刺青の腕で腰を引き寄せられてしまう。

「やだ、ここ学校っ」
「恭弥が可愛すぎるのが悪い」
「ばか、離し……っ、」

 ディーノは反対の手で僕の後頭部を固定し、いとも簡単に唇を塞いだ。舌まで突っ込まれてたまるかと必死で口を引き結んでいたけれど、ディーノはこじ開けるようなことはせず、優しく丁寧に僕の唇を愛撫する。
 口元をぺろぺろと舐める仕草は動物の親が子に施すもののようで、性的な意味は感じられない。けれど尖らせた舌先で唇と皮膚の境目を執拗になぞられると、僕の決心はあっけなく揺らぎ始めた。

「恭弥、くち、あけて」
「……」
「なめたい、恭弥の口ん中」

 視界がぼやけるほどの至近距離で、ディーノは僕を説き伏せる。我慢がきくのなんてほんの数十秒、この唇は魔法にかかったみたいに薄く開いてディーノの舌を迎え入れた。

「ん、んぅ……っ」

 髪も服も滴り落ちるほど濡れて冷たくなっているくせに、舌はいつもと同じ熱さで僕の中を動き回る。
 口蓋をくすぐるように舐められ、舌を吸われ、歯列をなぞられた。二人分の唾液が口から溢れ出していくけれど、それを拭う余裕なんてない。

「っ、んん……」
「きょうや、もっと開けて」
「も……や、ぁ、」

 夜の行為を連想させるようなキスを繰り返しているうちに、ディーノの手は二人の体の間に入り込んでいた。白いワイシャツ越しに、肉付きの薄い僕の胸をまさぐる。

「んぁ、やだっ」
「ほら恭弥、シャツ、濡れちゃったから乳首透けてんの。わかる?」
「や、やあ……あっ!」
「気持ちいい?」

 雨でびしょ濡れになったディーノと密着しているせいで、僕の制服までしっとりと湿り気を帯びていた。
 その湿った服ごと乳首を摘まれて、普段の自分では考えられないような声を上げてしまう。僕は背中を仰け反らせてディーノにしがみついた。

「恭弥……かわいい。抱きたい。ダメか?」
「……ここじゃ、や、だっ」

 学校で抱かれるのなんて真っ平だった。いつ風紀委員が入ってくるとも分からない。何より声が漏れてしまったらと考えると、気が気ではないのだ。
 表情で訴えると、ディーノはその整った顔に極上の笑みを浮かべてとんでもないことを言ってのけた。

「心配いらねえよ、この天気だし。雨で雑音がかき消されるって言ったのは恭弥だろ? 外の音が聞こえてこなけりゃ、こっちの声も届かねえって」

 そういう意味で言ったんじゃない。しかし、盛ったこの男に説明し直すには遅すぎた。思わせぶりな発言をしたこちらにも非があるし、実際僕の方もディーノに欲情してしまっていた。
 どちらからともなく再び口付けを交わす以外、僕たちの選ぶ道はなかったように思う。

「恭弥、好きだよ。愛してる」

 僕もあなたが好き、そう言おうとしたけれど、唇は空回りするばかりだ。たった十足らずの言葉なのに、どうしてうまく言うことができないんだろう。
 中途半端に開いたままの口は、またしてもディーノに塞がれた。

「無理して言うことねーよ。全部わかってるから」
「でも、」
「言ってくれんのか? ディーノ大好き愛してるって?」
「……もう絶対言ってやらない」
「えっ! つーかまだ一回も聞いてねーし!」

 ぎゃあぎゃあ喚いてうるさいことこの上ない。今度はこっちから唇を塞ぎ、全体重をかけて押し倒してやった。もちろんディーノの体が日本製のソファに収まるはずもなく、肘掛けに頭を強打して呻いている。

「きょ、きょうや、熱烈……」
「まあね。それよりあなた、急がなくていいの」
「え?」
「雨、やんじゃっても知らないよ」

 勢いよく体を起こしたディーノに巻き込まれ、二人してソファから転げ落ちた。あっという間に床に組み敷かれてキスの嵐を受けて、見上げた先には四角く切り取られた灰色の空。
 どうせなら、飛行機も飛ばないくらい激しく降ればいい。口にしてはいけないと分かっているけれど、心の中で願うくらいはいいでしょう。僕は初めて自分に言い訳をした。

 end.

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