昨夜ベッドの中で「愛してるよ」と繰り返したディーノが、今日になったら「おまえ誰だ? ツナの友達か?」と言った。
「恭弥! ちょっと落ち着けよ!」
「うるさいね。ついて来ないでくれる」
ディーノの側近のうちの一人、黒服で眼鏡の男が、病室を飛び出した僕を慌てて追いかけてきた。
「精密検査だと異常はなかった。本当だ。しかし頭を打ったからな、軽い記憶障害を起こしてるみてえだ。怒らずに様子を見てやってくれよ」
キャバッローネの本拠地に帰ってしまう前に、そのトップを消しておこうと企んだ敵マフィアの仕業だろうか。帰国手続を終えてホテルに向かっている途中、ディーノが何者かに襲われた。
幸い命に別状はないということだが、部下をかばって転倒したため頭を打ち、病院に運び込まれた。そこに連絡を受けた僕が駆けつけて、目を覚ましたディーノに言われた言葉が「おまえ誰だ?」というわけだ。
「そう大げさに考えるこたぁねえよ。ちょっと話してみたけどよ、忘れてるのはほんのひと月分くらいの記憶だ。どうせすぐに――」
「全部なんだよ!」
いきなり大声を張り上げた僕に、黒服の男は息を呑んで立ち止まった。振り向くと眼鏡の奥で目がまん丸に見開かれている。
「君にとってはたったのひと月だろうね。あの人が生きてさえいれば大丈夫、自分たちはやっていけるって確信してる。でも僕は違うんだ。僕とディーノが過ごしたのは二週間しかない。それが全部消えた。僕の存在が全部、ディーノから消えたんだよ!」
睨みつけている黒いスーツが滲んで頬が濡れた。感情が涙へと形を変え、僕の意思を無視してどんどん目から零れ落ちていく。自分がどれほどショックを受けているか思い知らされた気分だ。
唇を噛みしめて嗚咽をこらえていると、男は本当に、本当にすまなそうな声で「悪かった」と謝った。
「……いいよ。いいからもう一人にして」
「恭弥、ボスはきっとお前を思い出す。あの人がガキの頃から尻ぬぐいをしてる俺が言うんだ、間違いねえ」
「うるさい」
「万が一のことがあったとしても……あれだけ惚れてたんだ。また恭弥を好きになるに決まってるさ、うちのボスは」
「何それ? やめてよ。毎日見舞いにでも来て告白されるのを待てっていうの? 馬鹿にしないで」
くだらない会話は終わりとばかりに、失笑して歩き出した。涙で視界が歪んでいたけれど、踏ん張って前へ前へと進む。
歩きながら、今までどうやって一人で生きてきたのか思い出そうとした。ディーノと出会う前、まだ誰にも心を許していない頃、僕はどんなふうにして一日を過ごしていた?
(……分からない。思い出せない)
ディーノと過ごした二週間は、これまで一人で生きてきた十数年よりも重かった。想像を遥かに超える強烈さで胸に焼き付いていた。
二人で並んで見た夕焼け、感じた潮風、心地よい秋の木漏れ日、どれも鮮明に覚えてる。
ディーノは半ば本気の殺し合いをするという異常な状況の中で、目には見えない大切な宝物をくれた。たくさんの話を聞かせてくれた。ありのままの僕を優しく包み込んでくれた。
黒服の男が言うように、記憶が戻らなかったとしてもディーノは再び僕を好きになるかもしれない。けれど修行の日々を忘れてしまったディーノでは全然足りないと思った。なかったことにするには、あまりにも大きすぎたのだ。
僕が初めてディーノを殴った時につけた傷痕を思い出す。もうだいぶ薄くなっていたけれど、ディーノは「一生消えなければいい」なんて言って笑ってた。
心と体に残る、僕らが共に生きたという証。それらが何の意味も持たなくなった。ディーノの中に、僕は欠片も残っていない。
人を愛することが初めてな僕は、失う辛さを味わうのもまた、初めてだった。
continued.
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