時差


「恭弥!」

 今の今まで遠く離れたイタリアにいると思っていた男が、騒がしく応接室に飛び込んできた。こっちの都合なんてお構いなし。自分の行動が僕の心をどれほど乱すか、一度くらい考えたことがあるのだろうか。
 あきれ返る僕のもとまでずかずか歩いてくると、ディーノは穴だらけのズボンのポケットに手を入れた。

「恭弥、ちょっと手ぇ出して」
「どうして」
「いーからいーから」

 ディーノは拒否する暇も与えず僕の左手を掴み、その手首にカチリと腕時計をはめた。銀色をしたシンプルなものだけれど、素人目に見ても高価だということが分かる。
 顔をしかめた僕とは正反対に、ディーノは子供みたいに無邪気に笑った。

「よかった、ぴったりだな。すげえ似合ってる」
「ねえこれ、」
「見てみろよ。この小さい方の文字盤、イタリアの時刻に合わせてあるんだぜ」

 そう言われて思わず日本時間との差を確かめる。今は午後5時だから、イタリアは午前9時だ。
 8時間。僕より8時間前を生きるディーノ。時差なんていつも無意識のうちに計算してる、こんなもの必要ない。返そうとして留め金に手をやると、時計ごと腕を掴まれてしまった。

「外すなよ。ほらここ、恭弥の名前彫らせたんだ。特注品」

 ディーノが得意気に示した場所に目をやると、小さく文字が刻み込んであった。僕の名前と共にメッセージのような言葉が書かれているが、読むことができない。イタリア語なんだろう。

「……指輪の次はこれなの?」
「だって恭弥、恥ずかしがって指輪してくんねえじゃん。時計ならいいだろ?」

 ひと月ほど前にもらった指輪は、ボンゴレなんとかってやつと一緒にしまってある。恥ずかしいわけじゃないけれど、どうしても身につける気になれないのだ。

「こういうの、いらないってば」
「俺があげたいんだからいーんだよ」

 僕が高価なものをもらうのに遠慮してるとでも思ったのか、ディーノは顔を緩ませて「金のことなんか気にすんな」と言った。勘違いもはなはだしい。

「恭弥には、俺が贈ったもんを持っててほしいんだよ。安心できるから」
「……」
「なんか繋がってる気がするだろ?」

 ディーノは掴んだままの僕の手首を引っぱった。頼りないこの体は、いつもたやすく広い胸の中に収まってしまう。
 指輪、腕時計、万年筆、ネクタイピン、スーツ一式、香水。数え切れないほどのプレゼントは、どれも未使用のまま寝室のクローゼットに押し込んである。電話一本、メール一通の方が何倍も嬉しいということに、いつになったら気づいてくれるんだろう。

「恭弥、欲しいもんがあったら言えよ。なんでも買ってやるからさ」

 僕が一番欲しいもの、ディーノはきっとくれないだろう。分かってるから口にしない。絶対に手に入らないと知りながら求めるなんて、馬鹿のすることだ。
 自分たちの距離を的確に表す時計が目に入って、見たくない僕はディーノの胸に顔を埋めた。永遠に縮まらない時差を保って刻まれるふたつの時間がずしり、腕に重い。

 end.

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