雨色恋愛


 本日の天気、という欄には迷うことなく雨と記入した。午前中から降り出した雨は、夕方になっても一向に弱まる気配を見せない。
 次は時間割だ。一限目は数学、二限目は日本史、三限目は物理。四限目は何だったっけ、と顔を上げると、頬杖をつく白蘭さんとまともに目が合った。

「正チャン、それ何」
「学級日誌です」
「なんで正チャンがそんなの書くの?」
「週番だからです」

 壁に貼ってある大きな時間割で確認する。
 四限目、ライティング。

「今週は僕と白蘭さんが週番なので」
「あ、僕も?」
「はい。でもいいですよ。まだこっちの生活に慣れ始めたばかりでしょうし、僕がやります」

 ひと月ほど前に白蘭さんが転校してきた時は、それはもう大変な騒ぎだった。大した進学校でもないのにイタリアからの留学生、しかも美貌の青年がやってくるだなんて、誰もが嘘だと思うだろう。僕だって信じていなかった。
 けれど白蘭さんは本当に僕のクラスに編入し、なぜか僕の隣の席になり、どういうわけか僕が一切の面倒を見ることになってしまったのだ。最初こそ戸惑ったものの、白蘭さんの日本語はほぼ完璧だし、実際は学校生活ならではの細かい部分をサポートする程度で充分だった。ただ、妙に懐かれているという自覚だけは、ある。

「雨、やまないねえ」

 さむ、と呟きながら、白蘭さんはカーディガンの袖を引っぱった。僕だったら絶対に着ない、ダボダボの大きいやつだ。シャツの襟元も大きく開けて、ネクタイも緩めて、ズボンもずり下げて、なんだか僕よりもよっぽど日本の若者らしい。

「ねえ、まだ?」
「……あと、少しです」

 あなたの視線が気になって進まないんです、とは言えなかった。白蘭さんは頭をこてんと腕に乗せ、上目遣いに僕を見つめてくる。僕はどちらかというと人と目を合わせることが苦手だから、こんなにも積極的に視線を送られると、どうしたらいいかわからなくなる。
 居心地の悪さが限界に達しそうになった頃、不意に流れるような動作で白蘭さんの腕が持ち上がり、僕の首筋を撫でた。驚いた拍子に机がガタリと音を立てる。ぶつけた膝が痛い。

「なっ、なんですか、急に」
「正チャンさ、ここんとこホクロがある」
「え?」
「普通にしてると見えなかった。ほら、喉と顎の間くらい」

 あったような、なかったような。どっちにしろ、自分でも忘れてしまうくらいだ、とても小さなものだろう。それを白蘭さんに指摘されたことが、見つかってしまったことが、やけに恥ずかしくてたまらない。
 慌てて隠そうとしたけれど、もう間に合わなかった。白蘭さんは僕の手首を掴んで動きを封じ込め、顔を近づけてくる。吐息と髪の毛がくすぐったい。

「ちょ……っと、白蘭さん」
「ん?」
「人のホクロなんか見て楽しいですか」
「楽しいよ、正チャンのなら何でも」

 物珍しそうに首やら耳やらを観察したあと、白蘭さんは唇に触れてきた。とても綺麗な指先で、おそるおそる、何度も撫でる。好奇心旺盛な子供みたいな目をしている。

「正チャン」
「はい」
「くちびる、かわいてる」

 返事をする間もなかった。かさかさの僕の唇を湿らせるように、白蘭さんの舌が這っていく。気持ち悪いとは思わない。純粋に、絶句するほど驚いた。

「びゃ……びゃくら、」

 口を開くと、わずかに距離が縮まった。白蘭さんは僕の下唇を食んでいる。そのうち口の中に舌が入ってきて、縦横無尽に動き回り始めた。ほんのり甘い菓子のような味がする。あのゼラチンの塊か。なぜあんなものを好んで食べるんだろう、この人は。
 ぐい、と引き寄せられ、僕は思わず白蘭さんの肩にしがみついた。目の前の瞳は気持ち良さそうに閉じられている。これがキスだと気づいたのは、その時だ。

 でも粘膜接触とキスの違いって、一体なに?

「愛があるかどうかでしょ。キスもセックスも」
「愛なんて目に見えないもの、僕は信用しないんです」
「じゃあ正チャンの大好きな音楽は? 音だって形がないじゃん」
「それは……屁理屈ですよ」

 日誌を提出し、肩を並べて昇降口に向かいながら、哲学問答の真似事をする。白蘭さんは頭がいいから、話していて楽しい。白蘭さん自身のことも、たぶん好きだと思う。それが彼の言う「愛」なのかは、まだわからないけれど。

「まあいいや。帰ろっか」
「そうですね」
「……あのさ」
「はい?」

 心なし、雨脚が強まったような気がした。

「相合傘、してみたい」

 end. (2008/5/21)

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